重力に凭れる
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仕事を辞めて暫くして得た気付きは、存外自分は無職に向いている、というものだった。何もしていないことへの焦り、といった感情はついに湧くことがなく、ただ、鬱々とした、と表すにはやや漠然としすぎた、すべての感覚が柔らかく厚い膜に覆われたかのような、疎外ゆえの安寧があった。

日々はそれなりに楽しかったけれど、酒を切らした夜だったり、1週間ぶりのシャワーを浴びている時だったりにふと、自分が少し前とはかなり異なってしまっていることに気がつくのだった。自身が世界から、あるいは自身そのものから引き離されていって、無関心の対象に取り囲まれる。しかし、この感覚はあまり不愉快なものでもなかった。存在全てを軽視することで、確かに得られる充足感があった。

何もないまま時間が過ぎていった。口座の残金も、クレジットカードの明細も、冷蔵庫や戸棚の中身さえ敢えて確かめることはせず、漫然と過ごしながら、しかし3ヶ月ほど経ってあることに気が付いた。

ずいぶん長い間、棚に食料を補充した記憶がなかったのだ。しかし備蓄を検めてみても、そこには何の違和感も無く、自分好みの袋麺や酒がいくつか入っているだけだった。

数日、数週間経っても、備蓄は増えも減りもしなかった。消費したはずのものは皆、寝て起きて確かめると変わらずそこにあった。不思議ではあったが、気にしないでいることが出来たので、そうした。俺はまた惰性の日々に戻っていった。


今日は昼から酒を飲んでいた。この暮らしになってから初めてのことで、自分にもまだ何か、俗っぽい枷があったのだと感じる。今朝、スマホに妹からの留守電が入っていた。それは結婚の知らせだった。

喜ばしいことだと思った。それだけだった。

暫く無闇に酒を飲んだ。それから俺はいつの間にか眠りこけていて、何やら物音で目を覚ました。

瞼を開くと、天井からぶら下がる自分の顔と目が合った。ゆっくりと揺れ、涙か唾液か、液体が机の上に落ちてぴちょん、ぴちょんと規則的な水音を立てる。彼はスーツを着て、ネクタイを部屋の照明に括り付け、首を吊っていた。驚きに身を固め、数瞬の後、夢だと合点して目を閉じた。酔いのせいもあってか直ぐにまた眠気がやってきて、俺は脳裏に焼け付いた表情を振り払いながら眠りに落ちた。

次に目を覚ましたのは昼過ぎだった。果たして頭上には何も無かった。悪夢を見たのは久しぶりだ。というより、長いこと夢というものを見ていなかったと思う。嫌な気分を払拭しようと、シャワーを浴びたり、積んであった短編集を手に取ったりした。


結論から言えば、あれは夢ではなかった。

あの後俺は二日酔い気味だったこともあって酒に手が伸びず、中々寝付けずにいた。日が昇りかけた頃に尿意を催してトイレに立つと、風呂場の照明が点けっぱなしになっていることに気が付き、扉に近付いた。どこか錆のような、饐えた臭い。それで、俺は扉を開いた。異臭は段違いに強くなり、思わず口元を覆う。目に入ったのは真っ赤な液体を湛えた浴槽、その中に俺が浸かっていた。目は閉じ、顔の下半分は水面下に沈んでいたけれど、自分の顔を見間違える筈もない。

その場に立ち竦んでいたのは恐らく数秒程だったと思う。俺の心に突如湧き出たなにか場違いな勇敢さによって、俺は風呂場に足を踏み入れることが出来た。近くで見ると、それがスーツを着たまま湯船に浸かっているのが分かった。右手にはキッチン包丁。左手首にいくつかの傷があったが、それらを詳しく観察することは出来なかった。

というのも、死体は消えてしまったのだ。俺の目の前で、浴槽の中身ごと。後には血痕の1つも残らなかった。俺の理解を超えた出来事がこの家で起きていて、それが無視できるものではないことを理解させられた。鼻腔に染み付いた臭いは克明で、全て夢と信じ込むことは出来そうになかった。


そしてそれから数日間で、俺はこの異常をまだ過小評価していたことを突き付けられる。それは毎日、規則正しく現れた。午前4時から、30分間。そして忽然と消えてしまう。前兆は無いか、まだ見つかっていない。

最も恐ろしいのは、いつから始まったのか分からないことだった。自分が数週間か数ヶ月、あるいはそれ以上の間、こんなお化け屋敷で暮らしていたなどとは到底信じたくなかった。あるいは自分の精神が失調を来しているのか、とも思ったけれど、何枚か撮った死体の写真は消失後もそのままで、これは現象の証拠といえた。とはいえスマホに彼らの顔を残しておくストレスから数日後に削除してしまったし、そもそも俺の精神が健康だと言い張るつもりもないのだが。

恐怖に苛まれながらも、時間は過ぎる。まず変わったのは生活リズムだ。午前4時に起こる事を知ってしまっては、寝て過ごすことなど出来ない。その為に、酒を飲むのが怖くなった。酒が無い1日はとても長く感じられ、苦痛だった。そして肝心の現象については何も、対処出来なかった。毎日、時間が迫ると狭い間取りを徘徊し、時折死体が見当たらないと探し回った。そしてただ消失まで見張り続け、それから眠りについた。

死体について気が付いたこともある。それらの風貌にはよく見ればやや幅があり、少し若々しいものや老け込んだ顔をしたものもあった。だが、彼らは全てスーツ姿で死んでいた。

そうして死体に見慣れる内、それとは裏腹に、スーツを着た彼らが俺自身から離れていく感覚があった。スーツを着ておらず、生きている自分。彼らについては何も分からないのに、不思議と彼らと俺は、顔以外全てが異なっているように感じた。

死体の顔を眺め、そして別れる。それはある種の葬送のように思えた。俺も死んだらどこか別の俺の元へ送られるのだろうか? それは酷く気分の悪くなる想像だ。あるいは俺はもう死んでいて、だから食料も減らないのかとも考えた。それを本気で信じる勇気は無かったけれど。

俺の生活はしかし、そんな詮無い考えに支配されている訳でも無い。死体を意識するのは精々夜更けから消失を見届けて眠るまでの間であって、それ以外の時間は早送りのように過ぎ、何をしていたか次の日には思い出せないような状態である。これ自体は以前より似たようなものとも言えるが、しかし今の俺の胸中には、死体が現れる前には感じていなかった言い難い切迫感が淀んでいて、日々の無気力はそれからの逃避であり、以前の安寧は最早消え去っていた。


今夜はコンロの五徳に紐を括り、それで首を吊っていた。寝そべるような体勢で、死ぬには苦労しそうだ。コンロには覚えのない鍋が置かれ、いつもの袋麺がふやけて浮かんでいる。死体と共に現れたのだろうか。

そこで気が付いた。ああ、もしや減らない食料も、きっと酒も、彼らのものだったのか。引き物にしては俗過ぎるけれど。俺はこの異常について、初めてなにやら納得できることを見つけた気がした。

改めて死体を眺める。年頃は俺と同じくらい、つまりは俺と全く同じ顔であり、やはりスーツを着ている。少し珍しいことに目が開いていた。俺はしゃがんで彼を覗き込んだ。右眼は正面を見つめているが、左眼はほんの少し内側に向いていて、やや濁っている。彼は何を思い、このように死のうとしたのだろうか。

そう彼の生前に思いを馳せようとして、俺はふと、彼らとの決定的な違いに思い至った。俺はこの異常な状況下を含めたこれまでの人生で一度も、自死を考えたことなど無い。これは単なる生死より、大きな差異に思えた。

彼と自分。あからさまに同一の人間であるにもかかわらず感じていた違和の正体。俺は彼の頬に手をあてた。初めて触れる死体の肌は、想像ほど冷たくはなかった。俺と彼らを取り巻く現象は相変わらず得体が知れないけれど、その温度は確かに、ひとつの落とし所のように感じた。

そして故に、まだ死んでいない俺は、それだけで居るのではなく、たとえ暗澹たる停滞の中に居ようともそれなりに最善なのだと思った。俺がこの部屋に居続けようが、あるいは何か、それこそスーツに身を包み、人生らしきものを歩もうがなんら本質的な違いは無く、だからこそ、俺は彼らにもこの部屋の異常にも、拘泥する必要は無いような気がした。

それでなんとなく、今日はもう寝ようと思った。死体が消えるのを待たず、背を向け床に就く。既にやって来ていた眠気が身体を覆い、先ほどまでの考えをもう一度巡らせようとしたけれど、意味のある思索を紡ぐことは出来ないまま程なく、眠りに落ちた。

目覚めたのは昼過ぎだった。携帯を見ると、妹から不在着信が入っている。履歴を確認すると着信は3ヶ月振りだったが、前回も不在になっているので、最後に話したのがいつだったかは分からない。

少し、いや、暫く迷ってから掛け直した。3回程のコールの後、妹が電話に出る。元気か、だのどんな暮らしか、だの聞かれたけれどろくに返事も出来ない。そもそも会話をするの自体いつぶりだろう。数秒の沈黙があって、妹が本題を切り出した。もうじき式を挙げるが、気まずいならば来なくても構わない、祝儀も気にしなくて良い、とのことだった。俺はそういえば、と結婚のことを思い出し、妹はそれを察したのか呆れたように笑った。それから俺は、式には出席すると伝えた。妹は驚いた様子だったが、確かに喜んでくれた。少しは元気になったようで良かった、とも。そうして俺は電話を切った。

部屋を見回し、こんなに散らかっていたか、と思った。空き缶と袋麺のゴミが、かつてフローリングであった場所に積層している。クローゼットを開け、一番奥からスーツを引っ張り出すと、ジャケットの右脇腹に3cm程の虫食いを見つけた。これでは着ていけそうもない。新しく買いに行かなければ、と思った。あるいはその足で不動産屋にでも行ってみようか。なんにせよ用事が出来たのは確かだった。俺はとりあえず、外に出る服を見繕うためクローゼットを漁った。

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