「確定申告のやり方、知ってたりしない?」
夜勤明けの石上いしがみ ノアは、缶コーヒーを二本、金属製のテーブルに置きながら眠たそうに言った。蛍光灯が青白く反射し、天井に模様をつくる。
向かいの席では浦極 茜うらぎわ あかねがストローの袋をくるくる丸めていた。
「今、確定申告って言った?」
「そ。なんか税金がどうとかのヤツ。今年度、103万超えそうでさ」
「超えるとどうなるか知ってて言ってる?」
「まだ調べてない。けど多分良くないことが起こる」
「……103万超えたら所得税、130万で社会保険の扶養外。やり方は知らない」
「助かる。このままのペースだと世話になるかも」
茜はストローの袋を指に巻きつけては伸ばしてを繰り返している。石上が缶を開けると、乾いた音が小さく響いた。
「また博物館バイト詰めすぎたの?」
「画材代もバカにならなくてさ。あと洗濯機がこの夏に死んで、そっからコインランドリー。それも買いたい」
「今、何月か知ってる?」
「11月」
一瞬の沈黙。
茜は肩をすくめてカフェラテを啜る。
「修羅だね」
「修羅っしょ。うち親が厳しくて学費も自分持ちだから、生活費と合わせて、これでも全然マイナス」
「えらいじゃん。芸大でそれって、普通に尊敬よ尊敬。リスペクト」
石上は苦笑すると、缶を傾ける。
指先には油絵具のひび割れがまだ残っている。
「そりゃどうも。おかげ様で二留ギリギリだけどね」
「サイト勤務の分も全部使ってんだ?」
飲みかけの缶がテーブルに戻される。金属のぶつかる音が、やけに乾いて響く。
ひと呼吸あって、石上が眉をひそめて言った。
「何だそれ、ここの勤務ってもしかして給与出んの?」
「当たり前でしょ。え、貰ってなかったんだ」
「少なくとも先月は無給」
「請求してないだけじゃない?財団ってほら、言わなきゃやってくれないトコあるし」
「マジか」
しばしの沈黙。自販機のモーター音と明滅だけが働いている。
午前八時を回った上野は、まだこのくらいの静けさを持っている。
石上ノア、東京藝術大学・芸術学科四年。
日中は上野の博物館で展示補助のアルバイト。夜になると、博物館の地下にある財団施設──サイト-81UTへと降りてゆく。財団職員ひしめく現場で、石上は学生職員として清掃業務を任されていた。展示ケースのガラス磨き、湿度計の交換、空調フィルターの調整、それから脅威度の低いAnomalous物品の管理。勤務形態は曖昧で、契約書もない。
サイト-81UTに迷い込んだのは2ヶ月ほど前のこと。藝大構内の一部がSCP-3173-JPと断続的に接続していたことが原因だった。石上は記憶処理剤に対する稀有な耐性を示し、また博物館勤務の経験から現場作業への適性が認められたために、現在の「特別雇用」に至る。
浦極茜、東京大学・文学部四年。美学芸術学専修。
財団勤務歴は一年を超える。サイト-81UTにはその肩書で雇用されているが、実際には機動部隊の補助、現場のアノマリー調査まで何でもこなす。IDカードはもう数度目の再発行である。
異常にもさほど動じず「そういうもん」で済ませる性格で、石上にとっては、数少ない同年代の味方だった。
翌日の昼過ぎ。
石上はサイト-81UT経理課の窓口に立っていた。
天井の低い空間に、端末の光が反射している。石上はドアの前で少しだけ深呼吸をしてから、中に入った。
「特別雇用の学生職員の石上です。夜間、展示室の清掃補助をしています。今、先月ぶんの給料が頂けてないんですが、できれば振り込みのカタチで貰えませんか。不自然に思われない範疇の方法で」
男性職員は眼鏡の奥でまばたきもしない。
「検収書はありますか?」
「ありません」
「支払依頼書は?」
「ありません」
「契約書は?」
「『よろしく頼む』とは」
「……口頭は証憑にできませんね」
石上が困った顔で頷くと、男性職員は端末を操作しながら淡々と答える。
「検収書については人事に確認を取っておきます。振込み希望とのことですが、形式については三通りほどご案内できます。希望をお聞きしても?」
石上は小さく肩を上げる。
「そんなにあるんですか」
「一案目。フロント企業の内部勘定に振り替えて、第三者には参照不能な口座残高として処理します」
「検挙されたら守ってくれるんですよね?」
「二案目。非有害性のアノマリーを限定適用し、仮想通帳の支給記録を一時的に帳簿から抹消します。税務調査の回避には最適です。」
「……普通のはないんですか?」
「三案目。振込元の名義だけ調整します。年間支給額が103万を超える場合は、別途非異常性の手段で申告してください。基本的には通常の銀行振込と同等の扱いになります」
「それでお願いします。それが良いです」
男性職員はキーボードに指を置き直し、事務の声に戻る。
「では、振込元だけ変更して処理します。年間130万円相当を超える見込みの場合、被扶養者認定の見直しは受給者側の責務です。未申告が判明した場合、当該振込経路での以後の支給を停止します。口座名義については、上席と検討します」
机上には支払伝票。受領欄に拇印を押すたび、指先に朱が残る。
"検討します"という言葉が、財団ではいちばん心もとない。
夜間臨時支給通知
科目: 文化財整理 業務夜間割増(雑役務費)
振込先: 瑞穂銀行 南千住支店
振込元: 東京国立博物館 精査・編年プロジェクト研究室
発行: サイト-81UT 経理課/発行日:2024-12-01
年末調整は通常の処理を行ってください。年間130万円見込みの場合被扶養者の見直しは受給者側の責務です。未申告が判明した場合、この振込経路は停止し、現金支給台帳に切り替えられます。
夜の食堂。蛍光灯の下、茜がカップスープを混ぜている。スープの表面には、白い湯気と溶け残りの粉末が浮かんでいる。
石上はエナジードリンクの缶を持ちながら、財団ロゴの入った通知を茜の前に置いた。
「この通り、振り込まれた」
「おめでとう」
「……と思うじゃん?明細見て欲しいんだけど」
茜は紙をちらりと見た。
「103万?」
「そ。さかのぼって二ヶ月分まとめて振り込まれたせいで、あっちのバイトと合わせて累計106万。一晩にして扶養の壁が崩壊した」
「"直ちに、遅滞なく"じゃん。所得税を自分で払ってこそ大人だよボーイ」
「やかましわ。脱税タンス預金のなにが大人だよ」
「節税って呼んでよ」
石上は息を吐いて笑い、缶を啜った。甘ったるい炭酸が喉を刺す。
「必要に応じて働いてただけなんだけどな。食費がまずかったかな」
「モンスターの飲み過ぎ?」
「……世の中、健康な食品の方が高い気もしてきたな」
茜は無言で頷くと、口を開いた。
「というか普通に画材代でしょ」
「それもか。あと洗濯機も地味に」
「何キロのやつ?」
「7キロ。乾燥機付き」
「わお、贅沢」
しばしの沈黙。石上は空になった缶を机に置き、わずかに乾いた金属音が響いた。
「……で、やっぱさ。確定申告のやり方知らない?」
「知らんて」
洗濯機は来週届く。


