誰でもないあなたへ
お元気ですか? あなたが立ち去ってからあんまり時間は経っていませんが、まだ覚えているうちに、この手紙は書き上げてしまおうと思います。届けるのにもまた時間がかかるだろうことだし、きっとこれぐらいがちょうどよいでしょう。ちょうどよくありますように。
いつ届くのであれ、こちらは変わらず雪降りの夜半ですけれど、あなたの方はいかがお過ごしですか。あなたの朝はどんなお目覚めでしたか。つめたい雨の降りしきる世界で凍えていやしませんか。
この街は、あなたの望む先では在れなかったのですね。当然のこと、なのかもしれませんけれど。
独りぼっちのあなたの漂泊、自分を探す遠い旅。果てなき果てのこの街に、あなたは足を止めてくれなかった。お酒のひとしずくも口に含むことさえせずに、雪道に足跡を残して去ってしまいました。
去り行くあなたの灰色の背中。革靴が道に作った凹みを、降り積む雪がかき消していくのを見つめていたこと。まだ覚えてはいますけれども、きっといつか忘れてしまうのでしょう。世界に影響を与えられない、なんて緩やかに哀しいあなたの自嘲に、しかし言葉を返せなかった私にはもう、酩酊が染み付いてしまっているのです。けれども、それを悪いこととは思いません。この街はあたたかくて、穏やかです。ずっとここに居たっていいと、誰にともなく許されます。
まだ許されたくなかった、ということでしょうか。あなたは。
何となしに見せてくださったあなたのメモ帳は、狂気的なまでの書き留めっぷりでしたね。考えたこと、感じたこと、すべてを残そうとしてなのか、所々乱れながらも紙いっぱいに踊る文字。嵐を纏った龍の話なんかに至っては、あんまり全部が克明で、まるで小説みたいな読み味で。
けれども、書かれたものについて、書かれていないことについて尋ねたら、あなたは分からないと仰いました。筆跡を鑑みてそういうことにしているが、実際は自分で書いたものかどうなのかすらあやふやなものもある、と。感情の抑制されたような声色でそう言いながらあなたは、私の返したメモ帳にまたペンを走らせました。意味も意義もなくとも、忘れてしまっても、今は書くのだと。何者でもない、あなたが。
だから私も、去り行くあなたに、手紙を書いてみようと思ったのです。書いたことすら忘れてしまうであろう、この手紙を。あなたのことを忘れる前に。あなたが忘れるいつかのために。
きっと、お返事はいただけないのだろうと思います。あなたのせいではありません、いつだってそうなのですって。愛を送るのは一方向。ああ、独りよがりと呼ばれてしまうでしょうか。もう呼ばれているでしょうか。
足跡すらも雪が埋めて残らないこの街では、書くことに意味などないのでしょう。送っても送らなくても同じなのかもしれません。けれども気がつけば、呼吸を継ぐように綴っています、私。あなたの過積載のメモも、こういうことだったのでしょうか。言葉以上に送れるものがないのです。
ですから、どうか返信は気になさらないで。私たちは曖昧で、多分に揺らいでいて、具体性も物語もいつの日か失われてしまうけれど、それを悲劇と呼ばないでください。
きっと私はあなたを忘れます。あなたもまた、私やこの街を忘れるでしょう。世界はそういうふうに回っています。だから、それは数年、数日、あるいは数瞬後のこと。この手紙はきっと、一切の文脈を失くしてしまうことになります。
愛は祈りで、祈りは呪いでもある、と、昔に誰かに言われたような気がするのです。暴力だ、と言っていたような。縛りつけるものだ、とか、そんなような。
ならば、取り囲むすべての鎖が忘れられたなら、愛も、ただ純粋な祝福でいられたりはしないでしょうか。
色々なものを忘れ去ったいつかに、あなたがこの手紙を読み返しますよう。そのときはどうか、忘却にも悪いことばかりではないのだと分かってください。
私はあなたのように強くは生きられないから、つめたい雨には耐えられないから、しめやかに雪降るこの街にきっとずっと住み続けます。いまはまだ新参者、でもだんだんと慣れていくのでしょう。たくさん飲んで、たくさん忘れてゆくのでしょう。
そんな停滞に沈む酩酊の街より、あなたの旅路に祝福を。道行きはどうかさいわいに、曖昧にでもさいわいに。価値がなくとも意味がなくとも、選んで歩いて生きているあなたが選んで歩いて生き続けること、ただそれだけにありったけの花束を。何もひとつも変わらなくとも、眺めて記したあなたに安寧の瞬間がありますよう。
あんまり疲れてしまったら、あなた、またこの街に迷い込んでしまうかもしれませんね。そのときはまた休んでいってください。お酒を飲まないあなたにも、座れる椅子の余りはあります。
世界のすべてがあなたの旅を忘れても、あなたのことを覚えている、なんて、ロマンティックなことには縁がないけれど。私はここでお待ちしています。お待ちしていることを忘れた未来でもきっと、あなたのことをお待ちしています。
過去も未来も文脈も、すべてを散らばしてしまった後で、再びあいまみえたその夜にはまた、はじめましてでさよならしましょう。
大丈夫。停滞は、いつまでもここにいますから。
酩酊街より 愛を込めて
酒精がほのかに香った気がした。インキは随分と掠れていた。
紙の端はよれていて、濡れたような跡が柔らかかった。
いつからポケットに入っていたのだかも分からない、頼りのない佇まいの紙片だった。


