タイトル: アルル、プロヴァンス、1890年Arles, Provence, 1890
必要素材:
- 蓄音機 1台、ヴィンテージ・モデル、19世紀後半製が好ましい
- ビニール盤レコードプレイヤー 1台 (所有済)
- ソニー製ウォークマン 1台、外部スピーカー出力対応の改造を施したもの
- iPodポータブル音楽プレーヤー 1台、第5世代以降
- Google Pixel 3 スマートフォン 1台
- 上記各機器を同時に操作可能とする電子制御システム 1式
- 女神エウテルペーの影との儀式的な繋がり (所有済、展示期間中は本作に貸与)
- 複数の貴族の邸宅に由来する革命発生以前の様々なフランス家具 (ナイトスタンド、書斎机、衣装箪笥等々)
- 制御ユニットとして機能するように調整された、私の精神のデジタル複製体 (所有済)
- 指定入口1ヶ所と別途指定出口1ヶ所を備えた、10×10mの防音スタジオの利用権
- 力を掛け続けると解除される設計の自動施錠システム
要旨: いかなる時でも、私の作品に参加できるのは一度に一人までとする。入室すると、そこには飾り気のないスタジオがある。壁は塗装されず、古めかしい家具が雑然と並んでいる。これらの家具の上や周りに、多種多様な再生装置が、大抵はそれらを観察・操作しようとする参加者を嘲笑するかのような煩わしい位置に配置されている。具体的な位置は重要ではない。衣装箪笥の上なり、柱時計の下なり、ご想像にお任せする。
二分間、音楽は再生されない。入口・出口は施錠される。無論、決心を固めた参加者ならば退出することも可能だが、その場合は本気でそれに臨み、スタジオ内の凝り固まった停滞感を打ち破らなければならない。この形式ばかりの考慮期間の後、演奏が始まり、入口だけが施錠されたままとなる (熱意溢れるせっかちな輩のせいで作品の流れが台無しになるのは避けたいのでね!) 。
選ばれる音楽は、あなたの世界の終焉を告げる歌となる。親愛なる批評家のあなたにとっても、それを耳にする他のあらゆる人にとっても。私たちのラ・マルセイエーズを伴奏にしつつ、部屋は参加者の人生を彩る音楽に満たされる。それも歌の女神が直々に奏でる曲である。参加者は微笑む。笑うかもしれない。失ったものを思い出してすすり泣く者もいるかもしれない。そして誰もが、あの引き寄せられる感覚を、あのかすかな旋律を感じるだろう。
そう、批評家よ、ここに落とし穴が待っている。
それらの歌は参加者のためにあるのではない。遠く離れて響く。MIDIファームウェアのデジタル空間に閉じ込められたもう一人の私が、参加者に最も近い再生機器を完全に沈黙させるからだ。彼らの幼少期や失われた愛を象徴する讃美歌は静まり返り、そのままだ。哀れな参加者が、ある夏の朧げな記憶の中で覚えている歌の正体を掴み取ろうと手探りしながら歩き回る間も、鎖に繋がれた私の分身は音程を操作し続ける。彼らがどれほど強く抗い、いかに決然と歌に向かって突き進もうとも、得られるのは囁きだけだ。指の間から零れ落ちてゆく砂のように。そして演奏は終わる。
参加者を留め置くつもりはない。演奏開始と同時に出口は開錠される。しかし、なぜか、彼らは居座り続けるような予感がある。
意図: アルルは時の流れに置き去りにされた街だ。滅びた文明によって築かれ、ろくに重要なものを生み出しもせずに長い歳月を経てきた。しかし、あらゆる都は、万軍の主が綿密な配慮を以て置き定めるものだ。古代の人々は沈黙の千年の間、いったい神はどんな理由があって自分たちの街を、この煉瓦と芝生の寄せ集めを、放棄された円形劇場を、海から遠く離れた防壁を築いたのかと考えてきた。幾世代もの人々が思索し、何の答えも得られぬままに死んでいったに違いない。
1888年の生ぬるい夏に、アルルは目的を果たした。
ヴァン・ゴッホは街壁に辿り着き、そこで僅か二年を過ごし、己の天職を見出した。彼の作品については、凡庸な芸術家や超常の芸術家が既に語り尽くしている。ただ、これだけは言っておこう。アルルはまさにこのために築かれ、ゴッホが去った時に目的を失ったのだ。そこでは今でも数千人が生き、愛しており、そのいずれもが微塵も重要ではない。今やあの街は歴史の終わりに佇み、決して変わることなく、記憶されることもない運命に呪われている。
(数千もの魂をこうも軽々しく些末事に貶めるのは短絡的だ。だが私は常に物事の対象性、個々人をアダムの土塊から区別する微細な欠陥を見出すのを好んできた。その観点において、それら数千人の人々は大いなる守護聖人にして殉教者であるヴァン・ゴッホの反映に過ぎず、たとえ身体がまだ動いていようとも、彼らはゴッホの死と共に死んだのである。)
アルルは失われた都だ。私も人生を通してずっと失われ続けてきた。
あらゆる二人の間には深淵が介在する。大抵の者はそこに橋を掛けられるか、少なくとも暗闇に向かって信号弾や合図を送ることができる。
私は違った。私は常に脇役であり、代役だった。これまでに出会った中で、五年後に私の名を覚えていた者は一人もいなかった。私自身の電子複製体さえもが私を笑い、私もそいつを笑う。観客が本作から感じさせられるものは、私自身の体験のほんの一片に過ぎない。それが私たちの距離を縮め、私が彼らを知ることができ、彼らが気に掛けてくれるようになることを願うが、おそらく無理だろう。
生涯探し求めても尚、自らの目的を見出した気がしない。どうか、神よ、どうかそれが私を素通りしてはいませぬように。


