花の香りを纏う。
香水瓶に指先が触れ、それを掴み取ると硝子の冷たい温度が掌に伝わった。半透明な瓶の奥で揺らめく香りは、私を美しい人間へとなぞらえさせる聖水のようなものだった。香水を手首に吹きかける。それを、首元へ、肩へ、そして腰へと、身体のより深く、温度を帯びた部分まで染み込ませていく。ラベンダーの甘い感触が、翳が落とされるように、或いはベールが被せられるようにして、身体に張り付いた死臭を覆い隠してゆく。
身体に纏わりついた香りは、微睡むように優しく部屋へと広がった。レースカーテン越しに幽かに差し込んだ光は私の方までは届かず、穏やかな光はカーテンの裾を仄かに照らしただけだった。部屋は相変わらず水底に沈んでしまったみたいで、私以外のすべてが眠りについてしまっているように思えた。ここは、私だけの聖域。淡い薄明色に色付けられた香りだけがひっそりと息をしている。
その息づかいを確かめようと、私は目蓋を閉じて深く呼吸をした。鼻腔を通り過ぎた空気は咽頭へと触れ、その感覚に思わず涙が出そうになった。ラベンダーの香りは重たく甘く、それでも、その奥に緩やかな絶望を秘めているように思える。私はそれを飲み込んで息を吐き出した。鎮静作用の為か、気分は穏やかだった。
目蓋を開く。静謐に耳を澄ませると、さあ、と風が木の葉を撫でる音が鼓膜を僅かに震わす。何も苦しいことはなかった。ただ、安寧の感覚だけが私の皮膚を撫でていた。硬い音を立てて、香水瓶は棚へと戻される。棚には、茉莉花やバニラを閉じ込めた香水瓶がいくつか並んでいた。ほとんど使われた痕跡のないそれらは沈黙を貫き、先程まで持っていた香水瓶も同じように眠りについたように埃を被って見えた。
一拍置いて、私は台所へと向かう。擦れるような足音が空間に溶けるように聞こえた。冷蔵庫の扉を開くと、冷たく清潔な香りと混ざって、ブルーベリージャムの甘い香りと腐った果実のような香りがふわりとその場を漂う。冷蔵庫の中は食べ物が雑然と並べられていた。私はその中に小さなガラス瓶を見つけ、手に取った。
蓋を開く。被さった砂糖の隙間から紫色の小さな花が覗いた。人差し指と親指でそれをひとつ摘むと、ラベンダ一の持つ幾つもの小さな花にまぶされた砂糖の結晶が光を受けた粉雪みたいに、しんときらめいて見える。祈るような気持ちで花を口許へと運ぶと、花びらは舌の上でゆっくりと溶けていった。
「本日は、誠にありがとうございました」
葬儀の終わり、すっかり口に馴染んだ労いの言葉を私は口にする。故人は若い医師で、今回のインシデントで最後の死者だった。割り当てられた斎場は広くがらんとしていて、前方には遺影と供花がぽつりと飾られていた。私は遺影へと目を向ける。
遺影の中の彼は、糊の利いた白衣を羽織っていて医師の佇まいのようなものを感じさせた。薄い唇は結ばれていたけれど、銀縁眼鏡の奥の瞳はどこか優しげで。私はそれに少しだけ罪悪感を覚えてしまって、出口の方へと視線を移した。
数人の参列者はしめやかに斎場を後にしてゆく。サイトで執り行われる葬儀の参列者は少ない。毎日のように誰かの命が失われ、それがごくありふれたこととして扱われてしまうこの職場では、一々誰かの死に嘆き悲しんでいる暇はないのだ。
財団では、人の命というものはそよ風に散らされ果てる花びらのように呆気のないものだった。それでも、死者を弔おうと参列をする職員は少なからずともいる。事実、連日の葬儀でひとりとして参列者がいないといった事態はなかった。
「あの、鏡宮さん」
参列者が去り静かさが深まった斎場に、女性の声が反響した。私と同じくらいの年齢に見える彼女は髪を後ろにまとめ、喪服のワンピースを身につけていた。同じ喪服のはずなのに、ワンピースは夜の闇のような、深く上品な黒色を纏っているように感じられる。
「今日はありがとうございました。生前とてもお世話になった同僚だったから、ちゃんとお別れすることができてよかったです」
囁くようにそう言って、彼女は微笑んだ。花緑青に見える瞳に長い睫毛が被さって、脆く、淋しげな微笑みのように思えた。相当、親しい相手だったのだろうか。私は穏やかな声色で答えた。
「ご丁寧にありがとうございます。故人も、あなたのような優しい方に見送っていただけて、きっと喜んでいると思います。どうかご無理なさらず、ご自愛ください」
「優しいだなんて、そんな。嬉しいです。あなたも身体には気をつけて」
ありがとうございます、と私は答える。彼女は数秒だけ名残惜しそうに遺影を見つめると、パンプスの靴音を小さく立てながら出口へと向かった。私はその後ろ姿が小さくなっていくのを見つめながら、おもむろに葬儀の片付けを始めた。
午前中の業務を終えると、私はカウンセリングルームへと向かった。柔らかく射した日差しが陽だまりを作り出すような春日和。それに似つかず、サイト内のひんやりとした空調はシャツ越しに私の肌を刺していた。
カウンセリングは部門が手配したものだった。連日の葬儀へのメンタルケアだそうだ。一度は曖昧に断ったものの、以前のインシデントで精神を病んでしまった職員がいるのだと真面目な顔で言われてしまったものだから。だから、行くことにしたのだった。
カウンセリングルームは十個ほどの個室に分かれている。私はその中から指定された番号が振られた部屋を探した。カウンセリングという名目でここへ訪れるのは初めてだった。定期面談とは違い、カウンセリングは医療班が管轄しているものらしい。
ふいに、数日前の葬儀で見た医師の遺影と、その同僚の参列者の表情を思い出した。医療班の彼らは人命を救おうと手を尽くす優しさと静かな悲嘆を瞳の片隅に秘めていた。私にはそれが切なく思え、その献身を思うと彼らが恐ろしくも感じられた。ようやく部屋を見つけると、私は扉を開いた。
がちゃ、と音を立てて扉は開いた。部屋の壁は白く、木製の床に机と一対の椅子だけが置かれている。うっすらとエタノールの香りがするような清潔な部屋だったけれど、同時に閉塞的にも思えた。おもむろに、椅子に座っていた女性職員は立ち上がり、こちらへと向き直る。
私はどきりとした。なぜなら、女性職員の格好が、殺風景なこの部屋に全く似つかわしくないロマンチックなものだったからだ。
長い黒髪には薔薇模様のリボンが添えられ、ふんだんにフリルを蓄えたバーガンディのワンピースはビスクドールの衣装を思わせ、華奢な脚を包むレースの靴下と、ワンピースと同じ色をしたパンプスに私の目は留められる。
「こんにちは、鏡宮杏奈さん。またお会いできて嬉しいです」
「え?」
私は顔を上げた。銀色のラメを星屑のように纏った目蓋には、美しい青緑色の瞳が嵌められていた。翡翠みたいな、あるいは深い湖の水底みたいな、そんな瞳に私は吸い込まれてしまいそうな気がした。それを見て、葬儀の終わりに会話をした女性職員と目の前にいる彼女とようやく重なり合う。
「もしかして、先日の葬儀の?」
「ええ。先日は大変お世話になりました」
どうぞ座って、と言いながら彼女は椅子を引いて再び腰を下ろした。私も同じように腰を下ろすと、彼女と丁度目線が合って相対するような形になった。
「狩栖つぐみ、といいます。本日はよろしくお願いします」
よろしくお願いします、と私は会釈をした。かるすつぐみさん、と口の中で名前を反芻する。どこか丸みを帯びた響きをした名前は彼女にとてもよく似合っていると思った。私はモノクルに触れる。
「最近、何か不安に感じていることなどはありますか?」
「いえ、今のところ特に困ったことはありませんね。職務も順調ですし」
「それなら何よりです。普段はどのような職務をされているんですか?」
私は安置室の様子を思い出しながら答えた。安置室には木の独特な香りが漂っていて、それに馴染んだように遺体が横たえられている。私はその修復された遺体の頬や唇に色を乗せて死化粧を施し、棺に納める。死化粧を施すと、ようやく遺体は眠っているような穏やかな顔に見えた。
そして、斎場に運び込んだ棺に向かってそっと手を合わせて、私たちは彼らを送り出すのだ。訣別、哀悼、前進。それが私たちの理念。死者を送り出す内に、いつしか斎場は自分の一部のように思えた。納棺師として、或いは喪主として、故人を送り出すという役割を与えてくれる場所。
「なるほど。大変なお仕事だとは思いますが、その分本当に立派だと感じます」
私が答えると、彼女はそっと胸を撫で下ろしながら、ゆったりとした口調で言う。狩栖さんの声は高かったけれど、決して甘ったるくなく、寧ろ変声期前の少年のような爽やかさを含んでいるようだった。
それにしても、大変、か。私は薄く息を吐き出した。確かに多忙な部門だとは思うけれど、職務が大変だと感じたことはなかった。ふいに、死化粧を始めたばかりの頃に天職だと言われたことを思い出す。手付きが芸術作品を作るようだと。私は全くそうは思わなかったけれども。
「そうでしょうか。私には、医療班の皆さんの方が余程立派に感じられます」
「ありがとうございます。でも、医療が救えるのは人が生きている間だけなので。その点、納棺師はとても素敵なお仕事だと思いますよ」
狩栖さんはあどけなく微笑みながらそう言った。優しい人だなと思った。カウンセラーとして気を遣って言っているのではなく、この人はきっと本心でそう思っているのだ。生きている人間を救える方がずっと素晴らしいことだろうに。
彼女の軽やかな声も、仕草も、何気なく親しみやすい雰囲気を醸し出していて、それこそ天職なのではないかと思った。その純真さが眩しく感じられて、私は愛想笑いを浮かべながら答えた。
「優しいんですね。ありがとうございます」
えへへ、と彼女は照れくさそうに笑った。その後、質疑応答が幾つか続いて、軈て沈黙が訪れた。それがどうにも居心地が悪くて言葉を探したけれど、何を言ったら良いのか分からなかった。ふいに青緑色の瞳が何かに気づいたかのように揺らいで見えると、彼女は口を開いた。
「ラベンダーですか?」
「ええ、はい。お嫌いですか?」
香水の匂いを批判されるのは慣れていた。どうやら重たすぎるのだそうだ。ラベンダーがいけないのか、それとも香水が多量なのか。香りは兎も角、そこまで多く付けている訳でもない筈なのに。私は唇を結びながら彼女の返答を待っていたが、その答えは自分の想像していたものと違っていた。
「いいなあ。わたし、ラベンダー大好きなんですよ」
狩栖さんの少年のような声に乗せられて、大好き、という確かな言葉が私の鼓膜を震わせる。ふわり、と風が吹いたように錯覚した。私のラベンダーの香りが、鼻先に柔く触れたような気がする。どうしてか気恥ずかしくなってしまって、私は辿々しく言葉を繋ぐ。
「本当ですか? よく香りが重たすぎると、言われてしまうんですけど」
「全然気になりませんでしたよ。というか、寧ろ丁度良いくらいです」
「……嬉しいです。ありがとうございます」
とんでもない、と彼女は軽やかに笑う。口許に添えられた手は彫像のようにしなやかで、清潔に整えられた爪は薄い桃色に染められていた。ワンピースも、靴も、指先も、狩栖さんは頭から爪先まで全てが完璧に近かった。
「狩栖さん、そのワンピースとか本当に素敵だし似合いますよね。お人形さんみたい」
「え〜嬉しい。好きなんです、こういう格好」
はにかむような、驚いたような、嬉しいような表情で狩栖さんはそう言葉を紡ぐ。フリルで縁取られたその服装とも相まって、ひとつひとつの所作がとても可憐に思えた。
「鏡宮さんは、普段ロリィタとか着たりされるんですか?」
「服とか全然で。憧れるし可愛いなあとは思うんですけどね」
私は自分の普段の格好を思い浮かべる。髪は大学時代になんとなくウルフカットに切って以降ずっとそのままだったし、服もモノトーンのシンプルなものばかり選んでいた。狩栖さんが着ているようなリボンやフリルの付いた格好は、憧れはしていたけれど手を出すのには勇気が足りなかった。
「鏡宮さん、とても美人だし似合うと思うんだけどなあ」
「そんな……狩栖さんの方がずっと素敵ですよ」
もう、照れちゃいますよ、と狩栖さんは目を伏せながら言った。その動作があまりにも可愛らしくて、私も目を逸らしてしまう。束の間の静寂。時間が嫋やかに流れていた。そうだ、と何かに閃いたように彼女が掌を打つと、軽やかな音が響いた。
「今度、一緒に着てどこかお出掛けしましょうよ。服とかわたしの貸せますし」
その提案はあまりにも魅力的で。けれども、同時に後ろめたいような気持ちにもなってしまって、私は何も言えなくなってしまった。私の戸惑いが伝わったのか、狩栖さんは葬儀の時のように優しく儚く笑って見せる。
「ねえ、またお話ししませんか。わたし、鏡宮さんともっと仲良くなりたいんです。もっと仲良くなって、お茶会とか一緒に行ってみたりしたいです」
そう言うと、こちらに掌が差し出される。狩栖さんの、彫像のようにしなやかで美しい手。
「勿論、です。私も、狩栖さんのこともっと知りたい」
私はその手を取った。仄かに暖かい体温がじわりと掌に伝わる。
「えへへ、嬉しいです。あ、連絡先交換しませんか?」
狩栖さんはおもむろにスマホを取り出す。カバーは黒いレースで装飾されたもので、彼女の服装によく似合っていた。画面に表示されたQRコードを読み込むと、フィルターのかかった白い子猫のアイコンにtsugumiという名前が表示される。これで良さそうだ。
「それでは、今日はありがとうございました」
「はーい、また」
狩栖さんは手を振って、私もそれに振り返しながら扉を閉めた。もしかして、狩栖さんとなら仲良くなれるのかもしれない。そう思うとそれに答えるように、頬にかかった髪からふわりとラベンダーが香った。私は淡い期待を覚えながら、黒猫の描かれたスタンプでよろしくと送信をした。
『ね〜おそい』
『もう終わるから』
『もう30分前だよー』
『あなたは気が早すぎるんだって』
文字を打つたびに未だに慣れないネイルチップがかちかちと音を立てるのを聞きながら、私はメッセージを送った。クローゼットの奥に仕舞われていた貰い物の革のバッグに、財布やらスマホやらが収まっているのを確認する。電気を消して靴を履くと、私は急いで狩栖さんの部屋へと向かった。
今日は狩栖さんとアフタヌーンティーへ行く日だった。何やら好きなファッションブランドとのコラボらしく、彼女が目を輝かせながら「行きたい!」と言うものだったから。甘いものはあまり好きではなかったけれど、でも彼女とならきっと楽しいだろうと思ったのだ。部屋を見つけると、一呼吸置いて私はインターホンを押した。バタバタと物音がして、勢いよく扉が開く。
「杏奈ちゃん!」
ふわり、と優雅なフローラルの香りが漂う。私とお揃いのラベンダーの香りだ。彼女の勝負服を見ようと、私は頭から爪先へと視線を動かす。
くるくると巻いた長い髪には、薔薇とレースの飾りが施されたヘッドドレスが乗せられている。ボルドーの色をしたワンピースは花弁のようにひらひらとフリルが縫われていて、胸元に携えられた大きなリボンの中心に、彼女の瞳と同じ色をしたビジューが慎ましく光っていた。気合いの入った狩栖さんはいつもの何倍も可愛い。視線を顔に戻すと、少し怒ったかわいらしい顔にピントが合った。
「も〜遅いよう」
「待たせてごめんね」
「いいよ」
彼女が部屋の中へと進んだので、お邪魔します、と言いながらそれを追う。出逢って一年。狩栖さんが私の部屋へ訪ねてくることは多かったけれど、私が彼女の部屋を訪れるのは初めてで鼓動が少しだけ高鳴っていた。短い廊下を抜けると、彼女は扉に手を掛ける。わあ、と私は思わず声を上げた。
天井に吊るされたきらびやかなシャンデリアに、ドレッサーに置かれた化粧品やアクセサリーが宝石のようにきらめいて、アンティークを思わせる黒色の家具類たちが順に私の目に入る。物こそ多かったけれど、それぞれの物品に統一感があり、纏まっているように思えた。
「素敵な部屋だね」
「えへへ、ありがと」
今日のために片付けたんだ〜、と言いながら、おもむろに部屋に取り付けられた扉を開く。扉の奥は小さなウォークインクローゼットのようになっていて、その中には隙間なくロリィタのワンピースやブラウスが掛けられていた。すごい、と呟きながら、胸がときめくような心地がした。
彼女は掛けられた衣服をひとつひとつ丁寧に触れ、私の着る服を見繕う。ワルツのように、愛おしむように指先が踊る。その手元を見ながら、私は少し羨ましいような気分になった。素敵な趣味だ。
「ね、こんなのはどう?」
彼女はハンガーラックに掛けられたゴシックロリィタのワンピースをこちらへと見せた。マーメイドと云ったか、腰から真っ直ぐに降りる極夜のような深い紺色のスカートには膝上のあたりまで斜めにスリットが入れられていて、そのシルエットに目が惹かれる。フリルこそ拵えられていたものの、全体的な印象としては慎ましく、それでも退廃的な美しさを感じさせた。
だからこそ、ワンピースはどこか遠くに感じられて、私がこれから着るのだとは信じられなかった。
「これを、私が?」
「うん。なんというか、杏奈ちゃんには黒が似合うような気がするの」
よければどうかな。狩栖さんは首を傾げる。こんな素敵な衣装を私が纏ってしまって良いのだろうか。うっかり服を駄目にしてしまわないだろうか。そう思いつつも、せっかく狩栖さんが見繕ってくれたものだったから、私はそのワンピースを着ることにした。
「じゃあ、これがいいな」
私がそう言うと、狩栖さんの顔が一気に華やいだ。私はワンピースを受け取ると、腕の中に丁寧に抱えた。合わせる髪飾りを探してるから、と言って彼女は扉を閉めて、私は部屋の静寂にひとり取り残された。部屋に置かれている額縁やぬいぐるみが私をじっと見定めているような気がして、その心地悪さから抜け出そうとして私はネクタイに手を掛ける。
ネクタイ、ベスト、と順にいつも着ているスーツを脱ぐと、背中のファスナーの部分から脚と腕を通す。サイズは思いのほか丁度良かった。裏地がモーヴなのが見えて、だからこの服を選んでくれたのかな、と考える。ピアスの重さが吊り下がる耳に指を添える。淡い紫色のビジューが取り付けられたピアスは、誕生日にと彼女が贈ってくれたものだった。
「狩栖さん、背中のファスナーを閉めてもらえるかな 自分じゃ届かなくて」
「もちろん! あとねえ、コルセットと帽子と……」
黒い小物を腕いっぱいに抱えた狩栖さんは、手際よくデコレーションのようにワンピースを飾り立てていった。コルセットの編み上げがウエストを絞り、レースのガーターベルトをスリットの入った方の太腿に付けて、ベールの飾りを纏ったカクテルハットを被って、私は姿見の前に立たされた。
「ほら、かわいい」
鏡の奥にいる私は別人のように見違えていた。すらりとした黒いワンピースはきらびやかなのに仕事服のように私の身体によく馴染んでいて、私の為にこの衣服があるのではないかと錯覚させる程だった。柔らかい生地からは着たことのない服の冷たさを感じさせるのに、同時に蛹の中にいるような仄かな安寧があるように感じられる。
「私じゃないみたい」
「ふふ、よく似合ってるよ〜」
狩栖さんは後ろから私の肩に触れてそう言った。軽く抱き締めるような動作に少し気恥ずかしさを覚えながら、そろそろ行こうかと言った。彼女もそれに応じて、ふたりで部屋を後にする。繋いだ手と、触れ合ったスカートのフリルが春風を受けて揺れていた。
アフタヌーンティーの会場は案外近く、電車で三十分程揺られた先にある。私は読みかけの幻想小説に栞を挟み、狩栖さんは夢うつつな瞳を擦って、それから数分歩くと辿り着いた。会場はホテルの最上階で、緊張と期待と不安が混ざったような気持ちでエレベーターに乗っていた。
エレベーターが開くと涼やかな温度がふわりと頬に触れた。最上階だからか空気はどこか澄んだ色をしているように思えて、ガラス張りの窓からは遠い街の景色が覗いている。狩栖さんが予約の確認を済ませると、私たちは二人席に向かい合って座った。
軽やかなジャズピアノの四拍子が秒針の代わりに時間を刻んで、その隙間からカトラリーの奏でる微細な音が鼓膜に触れる。周囲では柘榴色や濡羽色の優雅な色のロリィタを纏った人びとが談笑していて、その日常と非日常の狭間の淡い幻想が少し懐かしく感じられた。
「アフタヌーンティーとかすごく久しぶりかも」
「行ったことあるんだ。ちょっと意外かも」
「昔ね」
ウェイトレスがアフタヌーンティーの説明をしに席へとやって来て、注文する飲み物を訊ねられる。私はコーヒーを、狩栖さんはメニューをじっくりと眺めながら最終的にストロベリーティーを注文した。ウェイトレスが引き下がり、私は口を開く。
「最近はどう?」
「んー、まずまずかなあ。また人手が減ったから忙しくなりそうだけどね」
「ああ、インシデントの……」
二週間ほど前に小規模の収容違反があったことを思い出す。事態はすぐに鎮静化されたと聞いたが、それでもその場にいた数人が死亡した。狩栖さんはへらりと笑って言った。その表情には少しばかりの諦念と、悲しみが混じっていた。
「新人の子でね、わたしのこともとてもよく慕ってくれてたんだけど、偶然その場に鉢合わせて、そのまま」
それ以上のことは言わずに、狩栖さんは口を閉ざした。辛かったね、と私はただ答える。以前、サイト内で彼女とその新人が並んで歩いているのを見たことがあったから、カルテを見た時はひどく悲しい気持ちになったのを思い出す。数拍置いて、私は言葉を投げかけた。
「狩栖さんは、どうして財団に来たの」
気になったのだ。どうして狩栖さんのような、ロリィタを着てアフタヌーンティーを楽しみにするような普通の女の子が財団に勤めているのか。わざわざベールの内側に入って、命の危険に身を曝す必要なんてないだろうに。唐突だったからか彼女は少し驚いた顔をして、けれども答えた。
「スカウトされたんだ。院生の時に」
「断らなかったの? 死んじゃうかもしれないのに」
「正常の範疇では救われない筈だった人たちを、ひとりでも多く救えたらと思ったんだ」
狩栖さんの瞳には私が映っていたけれど、同時に遠くを見ているかのように青緑が静かに凪いでいた。いつもと同じ透き通った優しい声に乗せられて、言葉は光のように射して、それがかえって私の落とす翳を強調している。そっか、とだけ私は呟いた。
ティースタンドとティーカップとパフェとがテーブルの上へと丁寧に配膳されていく。コーヒーの立ち上らせるほろ苦い香りが鼻先をくすぐった。ティーカップにもブランドのシンボルである真紅の薔薇が描かれていた。にも関わらず、ローズではなくラベンダーの香水を選んだのは私と一緒だからだろうか。
「それじゃあ、頂こうか」
その声ではっとして、そうだねと私は返した。とりあえずコーヒーを一口啜ると、苦すぎず甘すぎず丁度良い深みの味が舌にじわりと馴染んだ。狩栖さんは生クリームを丁寧にスプーンで掬い取りながら、私に訊ねる。
「杏奈ちゃんこそ、なんで財団に?」
「高校生の頃に、家族がアノマリーに殺された」
跡形も残らなくてね、と付け加える。狩栖さんの手が止まったのが、左目のレンズの奥の方でぼやけて見えた。代わりに私はアイスクリームを削り取る。パフェを食べるのは苦手だった。私が食べる毎に、完璧に盛り付けられたパフェは台無しな形へと変貌してゆく。
スプーンの銀色の上で、ルビーのアイスの欠片と添えられたマルベリーが光っているように見えた。きれいだな、と思って口に含んだそれには薔薇の花弁が含まれているようで。花の感触を歯で確かめながら私は続ける。
「弔えなかった家族への贖罪のために、納棺師になろうと思ったの」
「そんな、ことが……」
狩栖さんはスプーンを置いて、沈痛な面持ちをして言った。メゾピアノの旋律は静寂を拾い、ふたりの間にある哀しみという感情を装飾しているように思える。狩栖さんはローズティーに少しだけ口をつけると、おもむろに唇を解いた。
「ごめんね、辛いことを思い出させちゃって」
「全然。こちらこそ暗い話でごめん」
美味しいね。そう言って、下段のピンチョスを皿に取り分けた。舌に広がる塩味を味わいながら、言えないなと思った。少なくとも、この夢の狭間のような空間では。でも、本当の意味での私を知った時、かわいらしく、健気で純粋なこの子はどんな顔をするのだろう。
そういえばさ、と話題を切り替える。職務の話や本の話など他愛もない話を切り売りしている内に、すっかりセイヴォリーを食べ尽くしてしまった。アフタヌーンティーは下段が一番美味しいのに。物足りない気分で、中段へと手を伸ばす。手に取ったカップはゼリーとムースの二層になっていて、真紅と濃紺の層が硝子越しにこちらを見つめていた。
「もしもね」
狩栖さんは角砂糖をローズティーに落としながら、言葉を切り出す。彼女が角砂糖を加えるのはこれで何度目だろう。そんなに入れて甘くないのかな。そう言う代わりに、私はコーヒーを啜る。いつの間にか陽が傾き始めているようで、琥珀色の光が彼女の頬やヘッドドレスを照らしていた。
「もしも、わたしが死んだら杏奈ちゃんに葬儀をお願いしたいなあ」
「狩栖さんは死なないよ」
反射的に、そう返した。黄昏る彼女はどこか遠くに感じられて、光が作り出す幻想を思わせる。俯きかけたその表情から、その琥珀色の光に黄昏と文字を当てることよりも、ずっと繊細で複雑なものを秘めているのかもしれないと考えた。
もしもの話だよ、と狩栖さんは穏やかな音色で葬儀の要望について続ける。耳を塞ぎたかったけれども、ひとつひとつの言葉は呆気なくうずまき管を通って情報へと変換されていく。漸く話し終えると、狩栖さんは儚げな、死んでしまいそうな笑顔をして言った。
「ねえ、いいかな」
翳ったその瞳を見ながら、仰せのままに、と私は弱々しく答えた。それしか言えなかったのだ。私が納棺師で、人の死の一番側にいる人間だったから。そう思うと、喉につんと冷たいものが込み上がって来るような気がした。ただ、失うのが怖かった。
あなたが居ない未来が、私がひとりきりになる未来が、怖い。
「そんなに哀しそうな顔しないでよー」
僕そう簡単に死なないからさ、大丈夫だよ。赤子をあやすみたいに優しい声で、狩栖さんはそう言った。スプーンでゼリーを一口掬い取ると、それと一緒に涙を飲み込んだ。ゼリーからは甘酸っぱいラズベリーの味がして、少しだけ落ち着いたような感じがした。
「ごめん、ありがとうね」
「ぜんぜんだよぉ」
一緒に長生きしようね、と狩栖さんが右手の小指を差し出したので、少し躊躇ったけれども私も指を彼女の方へと差し出して、指切りをした。彼女の薬指に嵌められたペアリングの金属が冷たく、その温度が私を安堵させた。大丈夫だ。狩栖さんはきっといつまでも私の隣に居てくれる。
私は薄紫のムースをもう一口含む。ムースのミルキーな風味がラズベリーの後味と混ざり合い、ちょうど良いくらいに甘かった。
春が本来持つ淋しさを思い出させるような温度に空気が変わる時間になって、私たちは漸く会場を後にした。街灯だけが柔らかく光を落とす帰路を歩きながら、絡めた指の感触を確かめて、この時間がずっと続けば良いのにと思った。歩くごとに、狩栖さんの綺麗にカールした髪が靡く。
「すっかり食べ過ぎちゃったねえ」
「そうだね。夕飯はもういいかも」
中段をすべて食べ終わる頃にはもう甘さに疲れを感じていて、結局マカロンをひとつ食べてケーキ類は殆ど残してしまった。もう暫く甘いものは良いかもしれない。彼女は満足そうに頬を押さえていたから、それ以上に望むことはないのだけれど。
「あ、ワンピース洗って返すよ」
クリーニングで良いかな、と付け足す。長い時間着ていたためにすっかり忘れていたけれども、これは狩栖さんから借りた衣装なのだ。ロリィタが編んだ夢のような時間が終わってしまうことに少し名残惜しさを覚える。けれども、狩栖さんは断った。
「その服、杏奈ちゃんに持っててもらいたいの」
「え、そんな、どうして?」
「なんというか、わたしじゃ着こなせないなって思ってたし、それに」
杏奈ちゃんがあまりにも綺麗だったから。はにかんだような表情で、そんなことを言われてしまったらもう仕方が無かった。ありがとう、大切にするね。狩栖さんにそう言ってもらえた幸福と、この素敵なワンピースを私がもらうことができる喜びで、そう答える声が少し震えた。
そうこう話している間に、私たちはあっという間に寮へと辿り着ついた。私は部屋に置いたままになったスーツを回収しなければならなかったから、もう一度狩栖さんの部屋にお邪魔することになった。相変わらず、宝石が散りばめられたような素敵な部屋だ。
スーツを鞄に仕舞っていると、ふいに狩栖さんのすらりとした指に意識が行く。狩栖さんがこれから忙しくなるから、しばらく直接会うことはできなくなるかもと言っていたことを思い出す。次都合の空く日を聞こうと思って、狩栖さんはさ、と声をかけると、ふいに細い人差し指が私の唇をなぞった。
「狩栖さん」
ちゅ、というリップ音が合図になって、文末はほとんど吐息と化してぬるい唇の温度に溶ける。彼女の唇は柔く少し湿っていて、その奥で唾液とほのかな砂糖の甘さが舌に伝わった。彼女の舌はいつも少しだけキャンディの味がした。唇が離されると、頬に添えられた手の余韻がくすぐったく感じられる。
「名前で呼んでって言ってるじゃん〜」
そう言って狩栖さんは悪戯っぽく微笑んだ。その表情が扇状的に見えてしまって、目を逸らしながら、いつかね、と返した。私は聞きそびれた予定を訊ねる。やはり忙しいらしく、次の逢瀬は一ヶ月程後になりそうだった。
「淋しくなるね」
「きっとあっという間だよ」
玄関先で狩栖さんはそう言うと、もう一度手を絡めた。私の手はいつも冷たかったから、狩栖さんの手はいつも暖かく感じられる。名残惜しい気持ちで手を離して、それじゃあねと言葉を吐いた。彼女は少女みたいにあどけなく微笑んで、手を振りながら言った。
「またね」
次の逢瀬を遂げられないうちに、狩栖さんは死んだ。
密やかな死骸
揚羽蝶の翅を毟り取りたいと思うような衝動だった。
鱗粉に塗れた掌の中で蝶はもう動かなくて、幼い私はそれにひどく高揚を覚えていた。花は野風に揺れる時よりも摘み取った時の方が美しく、生前は一度たりとも触ろうと思わなかった飼い猫の亡骸を見て私は初めてそれを腕の中に抱き抱える。生きているものよりも、死んでしまったもののの方がずっと魅惑的であること。それは私にとっては平常の感覚だった。
だから、半壊の姉の死骸を見て思ったことは、猛烈に触りたいということだった。
触りたい。化け物に踏みつけられて白い肌から食み出た臓腑の、頭部から流れた血で汚れたミルクティーの髪の、小さな舌が覗く半開きの乾いた唇の、アフタヌーンティーで姉が苦戦しながら食べていたパフェみたいに、ぐちゃぐちゃになった彼女のその死の感触を私は全身で確かめたかった。
化け物の咆哮が遠く聞こえて、地面に打ち付けた頭と左目がずきずきと痛んでいた。姉に初めて覚えた感情に対する戦慄と、死骸に対する癲狂じみた欲望が血管の中で激しく沸き立ち、冷たい涙がぼろぼろと溢れた。やっとの思いで姉の方へと手を伸ばそうとすると、救護班が駆けつけてきて私は財団に保護された。
両親の遺体は見つからなかったそうで、姉の葬儀はどうするかと問われたけれど、直葬を希望した。白い骨を箸で拾いながら、姉がもうこの世界に存在しないことを実感して、漸く哀しい気持ちで泣くことができた。私は自分の異常な嗜好を心から憎んだ。誰かの生暖かい肉の感触を愛するように、私は屍体を愛してしまう。
身体に纏わり付いた死臭を掻き消したくて、私は香水を纏った。ラベンダーのそれは私の罪を洗浄してくれるような気がして、少しだけ気が楽になった。それでも本能にはどうしても逆らえないようで、気が付くと私は納棺師になっていた。
安置室に横たえられた遺体を私の目は勝手に視姦する。耳元で囁く悪意から意識を逸らしながら、私はいつも死化粧をし、納棺をした。皮肉なことに化粧の才はあるようで、先輩に天職だと言われてしまうこともあったのだけれど。
職務自体は全く苦ではなかったけれど、それにしてもとにかく嫌だった。もう辞めてしまおうかと思った矢先に、私は狩栖さんと出逢った。
狩栖さんは無辜な人だ。彼女が私へ屈託なく微笑みかける度に、少しだけ赦されるような気分になった。眩しい人。その内耳元で囁く声も消えて、もしかするとこの人と一緒なら幸せになっても、もう罪から解放されていいのかもしれない、と。本気でそう思った。そう思って、いたのだけれど。
「ねえ、どうして眠っているの」
そう呟いた。私の言葉は空気中に拡散されて、安置室にはすぐに静寂が戻る。私の目の前には狩栖さんの遺体があった。
『狩栖さんが、ですか』
過労による脳卒中。そう死因を告げられて真っ先に思い浮かんだのは、忙しくなりそうだと何気なく笑っていた彼女の表情で。焦燥と恐怖が嫌な冷や汗となって頸を濡らしていた。ただ、どうしようと思った。整理の付かない頭の中、喪主をするかという問いが私を誘うように甘美に響いて、ただ引き受けますと答えた。答えてしまった。
耽美な香りの奥で悪意が蠢き、彼女の遺体を私はぼうっと見つめた。眠っているような淫らかで、密やかな美しい、遺体死骸。耳元で囁きかけてくる声が煩い。その躰を思い切り抱きしめてしまいたいような衝動とそれへの節制に手が震え、全身の肌が粟立った。
それでも、現にここには遺体があり、私は狩栖さんの恋人で、そして納棺師だった。
ひとつ息を吸う。
「納棺を開始します」
一礼すると、掛けられていた浴衣を丁寧に剥がした。透き通るように白い体躯は起伏が少なく、華奢だったが柔らかそうに見えた。少年のような、或いは少女のような躰。皮膚の所々にブルーベリーのような色の死斑が覗いていて、それが。否、余計なことを考えてはいけない。私はできるだけ目を逸らしながら肌着を着せ、ドロワーズを手に取った。
「棺に入る時もロリィタは着たいなあ。白がいい。フリルがいっぱい付けられた、ウェディングドレスみたいな、わたしだけの死装束」
ラベンダーの香りに乗せられて、同じ香りを纏った彼女の言葉が頭に浮かんだ。脚にレースの靴下を、下肢にドロワーズにパニエを重ねた。その上から、彼女が好きなロリィタブランドで購入した白いワンピースを着せる。
いちばん素敵な白のワンピースを、と店員さんに伝えて出されたのは、胸元のリボンと喇叭のように広がった裾に縫われたフリルが可愛らしいワンピースだった。私が着ると思われたのか、私のサイズにあてがわれたそれは狩栖さんには少し大きく、袖の部分が少しだけ手に掛かった。
遺体に死装束を着せるのは、故人が晴れやかな気持ちで死後の世界へ行けることを祈るためとされている。彼女を生きた姿へと近づけ、死から遠ざけるこの行いに祈りの意味があるのか私には分からなかった。分からなかったけれど、せめてもの贖罪として私は納棺を続けなければならない。続く言葉を反芻する。
「死化粧はいつもみたいなメイクがいい。すっぴんとかは勘弁してね、杏奈ちゃんならきっと上手くやってくれると思うけれど」
前髪をピンで止め、彼女の陶器のような肌に化粧水を馴染ませた。次いで、化粧下地、ファンデーション、コンシーラー、パウダーと順にベースメイクを施してゆく。シェーディングとハイライトで顔に立体感を作り、桜色のチークで頬に血色を齎し、綺麗に眉毛を描いて、アイメイク。腕の見せどころだった。
まず、アイホール全体に桜色を乗せて、目尻に向かって菫色を、そしてその中間を薔薇色で馴染ませた。花のような色のアイシャドウが閉じた目蓋を美しく彩る。こうやっていると、以前彼女にメイクを施した時のことを思い出す。狩栖さんはよく目を開けるからアイメイクがしづらくって、でももう彼女は動かなかった。
ワンピースが白だから、ラメはパールのような色味で光るものが良いかなと思って、ブルーとピンクの偏光を目蓋の中心に乗せた。綴じられた目蓋はもう開かず、虹彩はもう光を通さないのだろう。失われた彼女の瞳の美しさが悦ばしく哀しく、綯交ぜになった感情で私はパールの上に少しだけ燐葉石のかがやきをまぶした。彼女の瞳の色を忘れたくなかった。
最後はリップだった。彼女が欲しがっていた綺麗な桜色のティントを唇に馴染ませ、そこにプランパ一のラメを少しだけ重ねる。死んだ彼女の唇はどんな感触で、どんな温度で、どんな味がするのだろう。そんな狂気じみた好奇心を抑えながら、私は最後の逢瀬を思い出していた。だから、口づけの代わりに名前を呼んだ。
「つぐみ」
きれいだよ、と心の中で呟いた。ここには少年のような朗らかな声も、はにかんだような脆い微笑みも、指先の仄暖かい温度も何もなくて、ただ私は最後まで呼んであげられなかったな、と思う。こんな莫迦げた抵抗のために呼ばれる名前ではないのに。もう一度名前を胸の奥で繰り返す。彼女を狩栖さんと呼ぶことはもうないのだろう。髪を巻いて、ベールの取り付けられたヘッドドレスを顔に被さらない様に頭に付ける。
最後に、私は香水瓶を手に取った。
「香水、っていいのかな。分からないけれど、叶うなら君とおんなじラベンダーの香りを」
プライベートで私と会う時、つぐみはいつもラベンダーの香りを纏った。私がそれを指摘すると、おそろいにしたくて、と彼女は美しい青緑の瞳を儚げに細めながら微笑むのだ。抱きしめるたびにふたりぶんの香りが甘く飽和して、そのまま一緒になったような気がして。
でも、そんなの駄目だよ。
どこまでも無辜で純潔なあなた。静かに眠るあなたには、きっと死臭を掻き消すためのラベンダーなんて似合わない。そんなの、私が赦してあげない。だから、ごめん。
私はラベンダーの代わりに、ホワイトローズの香水瓶を手に取った。買ったものの、死臭を隠すには足りなさすぎて棚の奥底で眠っていたもの。瓶を持つ手が震えたけれど、透明な液は私の掌を通して彼女の首元と、肩と、腰と、そして頬に馴染んでいった。触れた頬の冷たさだけが私の掌に傷痕のように残る。
「運びます」
そう声をかけると、二人掛かりで彼女を持ち上げて棺に収めた。周りに彼女のよく着ていた服を幾つかと、その上から白い薔薇の花を飾る。そして静かに棺の蓋を閉めると、私は手を合わせた。けれども、目蓋は見下ろす彼女の姿を網膜に焼き付けようとするように固く見開いていた。
地上に落ちてきた天使みたいに、ただ純粋に眠る彼女は美しく、今度こそ完璧だった。ロリィタに、薔薇に、香りに、死が揃ってやっとあなたは完全になったのだ。
はは、と過呼吸のような引き攣った笑いのような、言葉になりきれなかった感情が僅かに空気を震わせる。祈りの形に組まれた汚れた手にぎりぎりと爪が食い込んだ。ホワイトローズには彼女の死臭が僅かに混ざって、ただひどく厭な香りだった。
組んだ手を解く。手の甲に食い込んだ爪の痕は見た目こそ痛々しいものの、決して痛みを感じられることはなかった。葬儀が始まる。私は断頭台に登るような気持ちで斎場へと向かった。喪服代わりのゴシックロリィタは歩く度に重みを増していた。
静かな炉前室で私は彼女の骨を拾っていた。こつ、と骨を壷に納めるたびに小さく硝子の音が鳴る。炉前室は薄暗く無臭で、見放すわけでも干渉してくるわけでもなくただそこに存在しているような感覚があった。私は薬指の骨を箸で拾う。
彼女に貰ったロリィタを纏うことが赦されたのは、自由葬だったか、それともつぐみが生前ロリィタを着ていたためか、はたまた同情か。何にしても、二度目に着るのが葬儀だなんて悪趣味も良いところだ。
使われず棚に並んだ香水と同じように、このワンピースもクローゼットの奥でもう二度と醒めない眠りに付くのだろう。私は布に染みついたあの日の空気と、ひとりぶんのラベンダーと、喉の奥で凍った哀しみを抱きしめながら思った。
私はいつになったら赦されるのだろう。
四季は巡り、彼女と出逢い彼女が死んだ春も過ぎてもうじき夏が来るだろう。すべての物は移り変わり朽ち果ててゆく。否、私はラベンダーの香りのする春の牢に囚われたまま、また何度でも罪を再演してゆくのだろう。
小さな喉の骨を納め終わると、私は彼女の指輪の片割れを骨壷に入れる。肉でも死骸でもない、ありふれた骨になった彼女にはただ記憶だけが残って、密やかな哀しみで満たされた涙が指輪のプラチナに落ちて光っていた。喪失を実感するのは、いつも全てが終わった後だった。


