- 「俺はもうすぐ、夏が終わる頃に死ぬんだと思う」
どこからか聴こえる蝉の鳴き声だけがひどく煩くて、壊れたビデオテープのようだった。カウンセリングルームはひかりと影が溶け合い、その狭間に私たちは相向かっている。この場において私がすべきことといえば、目の前のクライアント──日野の話を聞くことであったので、仕方なく私は問う。
「それは、どういう意味でしょうか」
「今年の夏はあまりにも暑いから、終わる頃には乾涸びてゾンビみたくなっていそうだなって」
まあ、そうだろうな、と思いつつ私は自然な動作で眼鏡を外す。すると、三十年、と天啓のように数字が頭に浮かび、私は安堵した。エージェントにしては長くも短くもない、平均的な余命である。
日野は中学の頃からこんな具合だった。時々まっすぐな目つきで思いもよらないことを言うものだから、その度に私は揺さぶられるような気分になるのだ。しかし、その突飛な感じがちょうど良く話しやすく、その結果の腐れ縁なのであるが。私はレンズを拭きながら言った。
「夏も盛りですからね。晩夏になれば多少は涼しくなるでしょう」
「それなら良いけどなあ」
そう言って、日野は背伸びをする。言葉が途切れると一段と蝉の声が煩く聞こえて、クーラーの冷たい匂いがつんと鼻に付く。聞くべきことも既に過ぎ、雑談と化した定期面談は間延びしているように思えた。もうそろそろ切り上げようかと思うと、日野は再び口を開いた。
「俺が本当に死ぬとしてさ」
「その話はもう終わったんじゃないんですか」
「最期に行きたい場所があるんだよな」
行ってきたらいいんじゃないですか、と言うと、日野は右手を銃の形にしてこちらに向けた。お前も来いということらしい。少し逡巡した後、私が頷くと日野はくしゃりと笑う。
六時起きで新幹線に乗り込み、アイスの固さに苦戦している日野を見つつ、在来線を何本かを乗り継ぐ内に案外あっという間に目的地に辿り着いた。
終点のアナウンスが流れて、日野を小突くと彼は眩しそうに目を覚ます。最近はあまり寝付けないんだよなと欠伸をする彼の目の下には、以前まではなかった隈がうっすらと見えた。定期面談や報告では特に不調は見受けられないようだったが、突発的なものだろうか。
一抹の不安を感じつつ列車を降り、改札を抜けると懐かしい汐の香りがした。私たちの育った静かでささやかな街だった。
「あそこ入ろう」
日野は駅前の一角を指差す。古びた古民家風の建物は、中高時代によく通っていた喫茶店だった。ドアノブに手をかけると、からんころん、と軽やかなベルの音が鳴って扉が開いた。ひんやりとした空気がふわりと肌に触れ、汗ばんだ首筋を冷やす。
私たちは窓際のテーブル席に腰掛けた。ステンドグラスから淡いひかりが差し込み、日野の髪や睫毛を仄かに照らす。ラジオからは、鼻濁音混じりの銀河鉄道の夜の朗読が幽かに聞こえた。日野はプリンアラモードを一つ注文したので、変わらないなと私は言った。
「榾火は何頼む?」
「オムライスと、コーヒーフロートで」
「お前もじゃん」
そう笑った。
間もなく届いたオムライスは優しい味がし、変わらない味に私はほっとする。私にとって、この喫茶店の料理はいわば家庭の味だった。
日野の頼んだプリンアラモードに乗せられたさくらんぼやメロンやオレンジは、陽のひかりを受けてきらきらとかがやいて見えた。彼は銀のスプーンで丁寧にそれらを掬い取り、それを口に含むと微かに淋しげな顔をして、私はその表情を見たことがあると思う。
私たちが知り合ったのは中学二年生の頃だった。財団管轄の中学で、日野は転校生としてやって来た。日野です、と。背の高く、まっすぐな目をした彼の脚にはギプスが巻かれていて、それがひどく痛々しく見えたのだった。隣の席になった日野に大丈夫かと声を掛けると、途端にぼろぼろと泣き出したので、彼は災害孤児なのだろうと思った。
その日中ずっとこの世の終わりのような顔をしていた彼を私は引っ張って、この喫茶店へと連れて来たのだ。私はこの店で最も高いプリンアラモードを初めて注文して、日野は泣きながらゆっくりとそれらを食べると、やがて決意を決めたような顔をして、その顔が今の日野の表情に重なったのだ。
「大丈夫?」
「何が?」
哀しそうな顔をしているから、と言うと日野は少し驚いた顔をして、けれども彼はスプーンをじっと見つめながら、ただ懐かしいんだとだけ言った。
それから、あの授業はどうだったとかあいつは今上級研究員になっただとか、私たちは他愛もない話に花を咲かせた。話の合間にプリンは月が欠けるように少しずつ削り取られていって、最後のひとかけらを日野は名残惜しそうに掬い取ると私たちは喫茶店を後にした。
夏の景色はめくるめく。燦々と降り注ぐひかりの中で、私たちは記憶にある場所をひとつひとつ巡礼して行くことにした。海岸や古びたカラオケ、公園、ファミレス、そして学校。
私たちがかつて通っていた学校は、街の外れの方にあった。広い敷地には小中高の校舎と寮が静かに佇んでいて、高木に茂った葉の隙間からは陽射しが差し込んで青々と光っていた。
「ここにいた頃、俺たちはもっと自由だったような気がするな」
日野がそう呟いて、そうだなと私は言った。大学でプリチャード学院へ進学するまで、私たちが異常というものについて考える機会は少なく、この汐の香りのする街でただ無為に日々を消費していたように思える。
けれども、いつの間にか私たちは立派なエージェントになっていて、異常から世界を守る一員なんて大層な役割に就くことになってしまっていたのだ。
学校の周囲を何ともなしに歩いていると、向日葵畑が目を引いて私たちはそこで立ち止まった。太陽を象徴するその花は、空の鮮やかな青色を補色にしてまばゆく花びらを広げている。
「榾火」
日野は私の目を見ながらそう切り出す。熱のこもった空気はじりじりと揺らいでいて、七日で死ぬ蝉の声が大きく反響した。
「何だよ」
額を落ちる汗の感覚をより鮮明に感じた。日野のシャツや皮膚には青い影が落ちて、それが乾いているように見えたから私は変だなと思う。
「お前、人の死期が見えるだろ」
一瞬、いつもの冗談だと思って日野の目を見つめ返す。ひかりを吸収した瞳孔は、よく見ると青く見えるのだと私は初めて思う。
「俺の余命はどのくらいに見えた?」
一泊遅れて、鼓動が速くなる。どうして、日野がそれを知っているのだろう。蝉は鳴き止まない。沈黙の長さと比例して、眼鏡が重たくなっていくように感じられる。
「それは──」
「いや、いい。答えなくて」
ごめん、と日野は顔を伏せた。傾き始めた太陽がじわじわと私たちの影を焦がして、私はただ帰ろうと言うことしかできなかった。
帰りの新幹線で、私はずっと日野の言葉の真意を考えていた。いつからバレていたのだろう。もしかすると、夏の終わりに死ぬというのは本当だったのではないだろうか。いや、私の予知は正確だ。では、どうしてそんなことを聞いたのだろう。
肝心の日野は話しかけてみても、何事もなかったかのように振る舞うから、私には何も分からなかった。目の下に浮かぶ隈と、乾いたシャツと、日野の言葉がぐるぐると頭の中を巡り続け、まるで私だけが置いて行かれたかのような気持ちになった。
重苦しい気持ちのまま最寄りに着いて、私たちは言葉を交わさずに歩く。アスファルトに靴が擦れる音さえも煩く、私は音を立てないように粛々と歩を進めた。いつの間にか蝉の声は鳴り止んでいて、ただ私たちを攫うような夜の闇があった。
そんなことをしている間に、私たちはあっという間に職員寮の前へと辿り着いた。私は日野とは別の棟だったから、ここでお別れだ。
「あのさ」
私が踵を返そうとすると、日野は声を上げた。
「さっきはごめん。別に榾火に心配を掛けたい訳じゃなかった」
「分かってる」
分かる訳がないだろう。日野に対して感じた不安は少しずつ肥大化し、彼を得体の知れない化け物のように見せた。ひたすらに、分からないことが恐ろしかった。
「俺は」
日野が私の腕を掴み、こちらを見た。彼は初めて喫茶店に行った時みたいにぼろぼろと泣いていて、街灯のひかりで揺らいだ彼の目の中に私が居た。
「俺は榾火と行けて良かったと思ってるよ。こんなの身勝手だって、思うけど。でもこれだけは本当なんだよ」
来てくれてありがとう。日野は涙でぐしゃぐしゃの声で言って、掴んだ手を離した。私は祈るような切実な気持ちで言った。
「夏が終わっても死ぬなよ、絶対に」
それに日野は傷ついたような顔をして、それでも少しだけ笑ってみせて、じゃあなと呟く。そして、日野が背を向けて寮の入り口へと入っていくのを私はただ眺めていた。
星も月も見えない、ただ永遠に続くかのようなひどく静かな夜だった。
星も月も見えない、ただ永遠に続くかのようなひどく静かな夜だった。
プロトコル・ヴェルダンディ。その選出職員に選抜された俺は、夜の下を一人歩いていた。
選出職員となったのは偶然のことで、世界を救うなんていう映画のような大役が自分に任されたことをかつては誇りに思っていた。けれども、この果てしない極夜を過ごす内に、どうして自分がという気持ちがすっかり肥大化してしまったのだ。
もしも俺の家族がアノマリーに襲撃されていなかったら、もしも俺がプリチャード学院から財団に就職せず一般企業に就いていたら、そういう風に考えると果てしなく、ただ世界を救うしかないという絶望じみた使命感が残った。
さらに俺に与えられた使命というのは、反ミームの支配種を回収し破壊するという、世界を救うという言葉に反して何とも味気ないもので、しかしそれもあともう少しで終わりだった。
かつて──もうどのくらい前になるのか分からないが、榾火とあの懐かしい街に行ったことを俺は未だに鮮明な記憶として思い出す。あの日は俺に与えられた最後の休暇で、そして俺が財団職員としてではなくこの世界で生まれ育った一人の正常な人間として過ごした最期の日だった。太陽のひかりの溢れるうつくしい世界。夏の終着点。
だからこそ、怖く思えたのだ。途方もなく続くであろう夜が。
だから俺は試そうとした。榾火は裸眼で人を見る時に哀しそうな顔をする時があって、数日後にその人が死んだ時彼はきっと死期が見えるのだと思ったから。そして、彼が見えるのはきっと主観的な余命だから、では自分がどのくらいの間この極夜の下で過ごすことになるのかと。そんなことを軽はずみに聞いたのが途方のない間違いだったのだが。
俺は再びあの汐の香りのする街に来ていた。喫茶店、海岸、古びたカラオケ、ファミレス、学校と回って、闇に沈んだ静謐な街はまるで貝殻の内側に閉じ込められたようだった。ただ、汐の香りだけがかつてと同じように切なく鼻腔をくすぐっている。
街の静けさに身を任せて、そろそろ仕事も終わりにしようと思うと、俺は向日葵の花畑を見つけた。向日葵の花は見えない太陽の方を向いて、花びらを開いていた。
『夏が終わっても死ぬなよ、絶対に』
ふいに、榾火の声が懐かしく思い起こされて俺は思う。もしも、俺のこの途方もない孤独に向けて少しだけでも祈ってくれるなら、なんて。俺は汐の香りの中、ひかりを象徴するその花を手折って、街におやすみを言う。
おはよう、と誰かの囁き声が聞こえるような、静かな朝だった。何かふと長い夢を見ていたような心地がして、私は珈琲を飲みながら朝の支度をしていると、ふいにポストに何かが入れられているのを見つける。取り出すと、それは萎れかけの向日葵の花と"共同墓地へ"と書かれたメモ書きだった。
何だろうかと思いつつ、最近死期を見た職員がいたので、その墓参りのついでに私は共同墓地へと向かうことにする。夏ももう終わりを迎えて、涼しげな風が頬に触れるたびに私はえも言われぬ淋しさを感じた。
日野はあの後別のサイトへと異動となったらしく、それ以降会えていなかった。彼が死期の筈だった夏の終わりももう過ぎて、彼は生きているだろうかと私は思う。
共同墓地に着いて、私は名の彫られていないささやかな墓石に向日葵の花を供えて手を合わせた。夏の残り香が風に乗って過ぎ去って、三十年分の彼の安寧をただ祈った。
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夏のきみはおやすみ
ページリビジョン: 10, 最終更新: 25 Sep 2026 07:53


