< 収束の星冠 | 九剣の塔 | 卑欲の女王/星夜、裏切りの名の下に >
0. 愚者は愚者の夢を見る
記憶は積み木の城だ。ひとたび積み重ねれば、二度と取り除けない。
「あなたはもう、ここでの暮らしで麻痺してしまった。心の底では、ギアーズを諦めている。居ない人生を、受け入れ始めている」
──違う。
他の積み木で覆い隠すことができても、それを隠したという事実がし・こ・り・になって残る。
「私の王は、もう居ない。骨の欠片を、王とは呼ばないのよ。でもあなた達には居る。あなた達に取り戻してもらえない、哀れな王が」
──違う。
すっかり忘れたつもりになっていても、ある時ふっと思い出してしまう。愚かにも忘れようとしたという事実と共に。
「王に捧げない王冠は必要ない。あなた達烏合の衆にL.S.は務まらない。……黒の女王は、私一人でいい。独りでよかったのよ」
そして、無理に積み木を取り除こうものなら……
1. 鏡の中の魔女
「……違うっ!」
空虚な叫びが質素な部屋に木霊する。寝台を軋ませ跳ね起きた赤い瞳の少女、黒の女王カルディナは寝汗でぐずぐずになった肌着の胸元をくしゃりと掴み、背を丸める。
「また、あの日の……」
肩で息を整えながら、サイドテーブルのマグに手を伸ばす。前髪を伝う汗が鼻を擽るのも構わずに、半分ばかり残った湯冷ましを飲み干せば、幾分か心臓の鼓動は落ち着きを取り戻す。
彼女が過ぎし日の追憶と共に目を覚ますのはこれが初めてではなく。むしろ、日を追うごとにその頻度は増していた。追憶の根源たるその日、彼女たちの在り方を少なからず変えた日に、彼女は囚われていた。
その日、L.S.彼女たちに反逆者が現れた。裏切り者の名は黒の女王ミディ。自身のタイムラインのギアーズが故人であることに失望し、また他の黒の女王への根深い猜疑心から、超常の力を利用して数多の黒の女王を死に追いやり、最後には自身もその力に呑まれ破滅した彼女の事を、カルディナはどうしても恨み切れずにいた。
あの日のミディの糾弾は、カルディナにとって一思いに否定できるものではなく。その言葉ひとつひとつが、ミディたちを睨みつけていた瞳が、その身に深く突き刺さっていた。
「早く、忘れないと……」
枕に染み付いた悪夢から逃れるようにベッドを降り、顔を洗う。真っ赤な衣装を身に纏い、首には敬虔なカトリックを思わせるロザリオを提げる。そうして鏡と向き合えば、鏡の中の彼女が義理で笑う。
図書館の外郭、昼夜を問わず冷たく曖昧な陽光が注ぐ白磁色の森。そこに打ち捨てられたように佇む居宅を後にして、図書館の中枢へと赴く。今日の彼女には、散々な面持ちでは居られない理由があった。
2. 法衣の彼女
彼女たちにとって、穏やかに会することが出来る場所というのは限られている。少なくとも、年頃の女学生が集うような小洒落たカフェでカタログをしたためたり、看守財団を襲撃する算段を立てたりするような真似は到底できない。しかし幸運なことに、その図書館は余りにも冗長な中庭を擁しており──
「交流の場を設けるのは良いと言ったけど、こんな形式にする必要はあったの?」
──ガーデンチェアとテーブルを用意すれば、即席のお茶会会場を作り出すぐらいは造作もなかった。それが今日まで実現に至らなかった原因は、ひとえに彼女たちの多くが抱える閉塞的な対人姿勢にあるだろう。その典型的な例とも言える内気な知識人、黒の女王サルビアは、いそいそとこの場を設けたカルディナや、まんざらでもなく集まってきた黒の女王彼女たちに苦言を呈した。
「はいっ!そこまで準備が大変なわけではないですし、これくらいの空気の方がいつもの編纂作業を忘れてお喋りできますからね!」
「忘れる、ね……」
カルディナは至って明朗快活に答える。そこに今朝がたの病人じみた様相の彼女はいない。今のカルディナこそが彼女たちから見た自然体の彼女であった。そんな彼女に導かれるまま始まった交流会は、冒頭こそ話題選びに困窮して滑り出しが不調であったが、ことのほか身の上話だけで盛り上がれることを悟った彼女たちは次第に年相応な会話の色彩を恢復し、あらかた語りつくす頃には持ち寄った茶葉や茶菓子の感想を言い合うだけでも花を咲かせていた。
「そういえば、例の塔。私のタイムラインでも看守が差し押さえたみたいよ」
「塔……ああ、串刺し死体が生えてくる塔ね」
「あ……えっと……」
「見た目も異常性も派手じゃあそうなるさ。うちのタイムラインじゃ焚書屋GOCがじきに取り壊すだろうよ」
そんな彼女たちの年相応な──といっても、ティーンからアラサーまで幅広いし、なんなら蛇の歯アマンダまでいる──談笑が一頻り収まると、彼女たちは誰からともなく驚くほどすんなりと黒の女王の職責を思い出した。
複数のタイムラインにほぼ同時発生した、古典的な塔。その異常性は"塔の周囲に剣に串刺しにされた死体が現れる"という珍妙なものだった。その目的不明の塔が彼女たちの注目の的となっている原因は、その塔が持つ"もう一つの性質"にあった。
「しかし、"現実を歪めうる力"をみすみす見逃すというのは如何なものかな。せっかく連中の手が伸びる前に観測できたというのに、様子見ばかり。ただでさえごっそりと人手が減ったのだから、使えるものは何でも使って然るべきじゃないかな」
「わかっていることが歪めう・る・ってことだけなんだもの、流石に手は出せないわ」
「串刺し死体だって、何らかの改変を受けた結果ああなっているのでしょう?それはつまり、思いもよらない方法で命を落とすかもしれないということ。人手の浪費は看守に任せておけばいいわ」
「そうは言ったって、看守らが手を付け始めてから分かったことが一つだって増えたか?奴ら、現実錨楔を刺して終わりじゃないか」
現実改変。看守や焚書者が忌避するその力は、彼らと対抗する者たちにとって垂涎の的だ。それは彼女たちにとっても例外ではなく。それぞれが個性的な異能を持ち合わせている彼女たちだが、どちらかと言えば焚書者たちが呼ぶところの魔女タイプブルーに属する能力者が殆どであり、現実を歪める力となると話は別だ。故にそれをも・の・にすることが、彼女たちにとって大きな前進となるというのが概ねの共通認識であった。
空のティーカップもそのままに議論を始める彼女たちを前にして、何か言いたげに口ごもるカルディナ。それに気付いたサルビアがこっそりと耳打ちする。
「諦めな、カルディナ。気持ちはわかるが、私たちは黒の女王なんだ」
「そう、ですよね。すいません」
サルビアに窘められ、カルディナもまた議論に混ざっていく。カルディナは件の事件を経験して、彼女たちがカタログ作りだけに留まらない、より深い関係を築くことに価値を見出していた。そうした発想を発端として、彼女はこの茶会の開催に漕ぎつけていた。
しかしそれと同時に、黒の女王としての務めからひと時でも離れることが、ミディが命をもって示した想いに反するのではないかという考えにも揺さぶられていた。つまりカルディナは二律背反の只中にあり、どちらにも傾倒しきれず、曖昧に答えを先延ばしにしていたのだ。サルビアの言葉を素直に聞き入れたのは、そういった事情からだった。
すんなりと態度を改めたカルディナを見て、サルビアは何かを憂慮するように眉をひそめる。カルディナがそれに気付く様子はない。
「Hm値……でしたっけ。それが高いから、何かが書き換わっているかもしれないんですよね」
「そう。そのあたりの知識で看守に後れを取っているのも私達の課題ね。そして私達より詳しいであろう彼らでさえ目立った成果を上げられていないというのだから困ったものね」
「実際のところ、看守たちだってただ様子見をしてるってわけじゃないよ。塔の中に人を送り込んではいるみたい。ただ、その記録が事実ごと消えちゃってるってだけで」
「と、言うと?」
彼女たちの一人が、満を持してといった風に古びた充電式ラジオを取り出した。図書館には時折、ささやかな力をもつ品々が、誰が持ち込んだともなく流れ着く。そのラジオも漂着物のひとつだった。留守番電話やCDのボートラ、アジアの島国の天気予報サービス177……そういった影の薄い、他愛のない音を気まぐれに拾う力を持っている。だが、時折穏やかではない音を拾う時があり……
「このラジオがね、看守たちが捨て駒をあの塔に送り込んだ記録を拾ったんだ。でも私が探った限りでは看守のデータベースにこんな記録は存在しない。つまりこれは既に書き換えられ、無かったことにされてしまった記録ということにならない?」
「言いたいことはわかる……けど、偶然にしては出来すぎている。看守の蒔いた餌かも」
「仮にそうだとしても、聞く価値はある。そう思わない?ほら、流すよ」
ラジオの持ち主は有無を言わせずにスイッチを入れ、拾った音声の録音を再生した。
「……ああクソ、わかっちゃいたが、奴ともっかいやり合うなんて御免だ!あるんだろ?出口が!この先に!」
早い吐息が声に紛れている。複数の足音が反響している。おおかた何かから逃げまどっているところだろう。
「やっぱりだ、はぁ……はは、ざまあみろ!」
バタン。力強く扉を閉ざす音と、ずるずると布の擦れる音、扉を背にへたれ込んだ捨て駒が目に浮かぶ。
「ん?途中からなの?」
「そうだね、それに看守の声も入ってない。あくまでも断片情報って感じだ」
「お前は、さっきの……ああ、ここがテッペンか。それで?ここから何をすればいい」
誰かと会話しているような口ぶりだが、会話の相手の声は録音に入っていない。環境音は入っているにもかかわらず、だ。
「なるほどな……まあ、そうか。登ったんだから、降りねぇとな。これを持っていくんだな?全く、何の役に立つんだか」
重い硬質な物体を引き摺る音。それから再び扉の音。
「って、お前はまだ居るのかよ!ふざっけんな、この……あぁ?」
骨肉の裂ける音。液体の垂れる音……しかしその音は捨て駒から発されるものではないようで。
「なるほどな……自分の手で否定するってのは、こういう事……だなっ!このっ、散々……コケに、しやがって!」
柔らかいものが形を失う音が連続する。そしてそれを掻き消すような怒号が響き渡っている。
「……下品ね」
「まあ、もとを正せば犯罪者ですからね」
暫し、似たような破壊音と怒号、ないしは笑い声が続く。時折挟まる扉の音が、彼が同じ場所に留まっているわけではない事を示している。
そんな衝動に身を任せた破壊は、ある扉の先でぱたりとやむ。細かな環境音が紛れているのを聞くに、記録が止まったわけではなさそうだ。
「そう……そうだよ、お前だよ!お前が居なくなったから、俺は!」
「待っ、何……」
暫しの静寂の後、新たな感情を顕わにした捨て駒の声に遅れて軋む床を走る音、それから彼のものではない声が紛れ込み……激しいホワイトノイズと共に録音は終わった。
「それで、こんな映像のないパニックホラーみたいな音声からどんな知見を得ろというの?」
「そう邪険に扱うものじゃないよ。少なくとも中を調べるならそれ相応に"やり合える"人の方が適任だってことはわかったでしょ?」
「それだけじゃない。明らかに塔には"持ち主"がいる。塔に入った人間にルールを課し、その中で弄んでいる……利用しようとすれば、ロクなことにならないのが目に見えてる」
「利用するかどうかは次のステップの話でしょ、まずは塔が手付かずのタイムラインで、塔を看守たちの手から遠ざける。そして、ルールがあるというのなら、私たちの手でそれに則って攻略する……どう?理にかなってない?」
「……あんたがあのピン止めされた死体の仲間になりたいって言うなら、私は止めないけど」
「あの死体が塔に踏み入った人間のものだって根拠はないし、仮にそうだとしてそのルールとやらを守れば問題はないかもしれない……とかく試さなければ何も得られないんじゃない?」
「ふーん……まあ、あんたのタイムラインの塔はとっくに看守の手の内だもんね」
「ちょっと、それどういう意味──」
「私っ!」
つい先程までの穏やかな歓談はどこへやら、見る見るうちに張り詰めてしまった空気に割り込んできたのはカルディナだった。ガタンと椅子を鳴らして立ち上がり、胸元に提げたロザリオを握りしめ、お気に入りの人形を悪童に奪われてしまった女児のような面持ちで声を震わせる。
「私……行きます。私のタイムラインはまだ、手付かずですし……私の力なら、少しは戦えますから!だから……今日はとりあえず、お開きにしましょう」
そうして初めての茶会は、カルディナにとっては望まぬ形で、それ以外の彼女たちにとっては、存外有意義に幕を下ろした。彼女たちはあの程度の諍いなど諍いに含めないとでも言いたげに無言で解散していく。最後まで残り、カルディナと共に後片付けを済ませたサルビアが、ずっと気まずそうに沈黙していたのを破り、カルディナに話しかける。
「あのさ……カルディナ。さっきは、悪かった。あんな空気にしたかった訳じゃなかったんだが……」
「いいんです、サルビアさん。楽しむ時間は十分に作れましたから。それに何れにせよ、話に上がった時に名乗り出るつもりでしたしね。あの場を収めるためだけに言ったわけじゃないですから、心配いりませんよ!」
「そんな話がしたいわけじゃ……本当にわかってる?命の保証がないんだよ?」
「はい、わかってます。でもそれは、看守を襲撃したりするのと何ら変わらないじゃないですか」
「……私たちは簡単に死ぬ。それはカルディナもわかってるでしょ」
「わかってます。わかっているからこそ、そうしたいと思える私が行くんです。そうじゃないと、ミディさんにも合わせる顔がありませんからね」
「ミディね……はぁ。それこそミディが居れば、塔の調査ぐらいどうってことなかったのに」
「?」
「あー、知らないなら、いいや。今更知ったところでね。本当に私達、お互いの事何も知らないみたい。兎に角、生き急がないでよ。止めても行くなら、止めないから」
サルビアは、脳裏に浮かんださまざまな忠告をぐっと堪え、捨て台詞と共に中庭を去る。サルビアには、カルディナの混濁した心境を正確にくみ取り、助言をするような能力の持ち合わせはなかった。ただカルディナの不安定さが漠然と不安で、それをあまりに言葉足らずな忠告で済ませてしまったのだった。
3. クイーンズ・ギャンビット
現代においてはもはや珍しいものとなった、手付かずの森林。人を誑かすための塔がなぜこのような僻地にあるのかはいざ知らず、それにより看守たちの目を掻い潜ったその塔の周囲に、最も明確なトレードマークであるはずの串刺し死体は無かった。代わりに、塔を囲うようにして9本の剣が地面に突き刺さる形で自立していた。
「どうですか?何か判りそうですか」
塔に辿り着いたカルディナは懐から取り出した手鏡をその剣のうちのひとつに向け、手鏡に語り掛ける。すると手鏡の中からうなり声が返ってきた。
「柄に刻み込まれているのを見る限りでは、恐らく人除けの類いだと思う。それも、かなり強力なやつ。ねえカルディナ、あんたどうやってこの塔を見つけたの?」
「どうって、いつも通り図書館で情報を拾って……ここへも、普通にたどり着けましたし」
「……本当に、気を付けた方がいいかもしれない。やっぱり私もそっちに──」
「大丈夫ですよ!タイムラインを超えるのだってリスクは小さくないんですから。そこからサポートしてもらえるだけで充分です!それに……」
鏡の向こう、図書館から見守っているサルビアの言葉を遮るように手鏡を仕舞い込み、塔の入口に立つ。石造りの壁面はじっとりと苔むし、観音開きの鉄扉は赤錆が剥離している。だが視線を上に動かしていくほどに、塔に刻み込まれた年季が薄らいでいるのが見て取れた。何年も時間を掛けて建てられたかのようなグラデーションだ。
「……何となく、解ってますから」
押し開けた扉の先は、がらんと殺風景な空間。小窓から差し込む夕日のみが照らし出すその部屋はエントランスとしては極めて不相応で、上階へと続く階段すらなかった。カルディナはそっと中へ踏み入り、室内を慎重に観察し……それ以上の進展がないのを見れば、直感的に扉を閉ざした。
すると外光は不自然に途絶え、空間は暗闇と化す。カルディナが自前で照明を用意しようとしたところで、パッと部屋が再び光を取り戻した。しかしそこは元居た石組みの部屋ではなく、どこまでも水平に灰色の地面が広がるばかりの空間だった。天井もまた地面と同様に無限大へ発散し、時折、そこから溶け出したような不透明な液体が砂時計のように天井から床へ、あるいは逆らうように床から天井へと流動していた。壁も、彼女がたった今閉じた扉もなく、ただマホガニーのウィンザーチェアが二つ、向かい合うように設けられているばかり。そして、その椅子の一方に、何者かが腰かけていた。
骨に皮を貼り付けたような、茶褐色の肌をした老人だった。背凭れに身を預けたまま、墨に潜らせたような眼で無人の椅子を眺めるその老人はピクリとも動かない。彼女がそれを死体と見紛わんとしたとき、僅かばかり開いた唇から皺嗄れた声が漏れだす。
「座り給え……理解しているのだろう。貴女は招かれた」
「あなたが、この塔を?」
「如何にも」
カルディナは冷静に老人へ問いを投げかけながら、促されるままに椅子に浅く腰かける。"招かれた"、その実感が彼女の中にあった故に、得体のしれない相手の指示に従う事への恐れが和らいでいた。事実として、彼女が席に着いても老人が彼女を何らかの形で害することはなく。ただ、彼女の問いに端的に答えた。
「どうして、私なの?」
「お嬢さん、貴女には資格がある。それ以上を教える気はない……さて、私もお嬢さんに幾つか質問をしようか」
老人は彼女をここへ招いたにもかかわらず、彼女から何かを聞き出さんとする。彼女はそのやや矛盾じみた状況も、今は呑み込まざるを得ないと理解していた。
「まずはお嬢さんの名前だ」
「私は……黒の女王の、カルディナです」
「それは通り名だろう。私が聞いているのはそういうことじゃない。それに、今の君はそ・う・し・て・振舞ってはいないだろう?」
「……アリソン。アリソン・チャオです」
「よろしい。では先程名乗った通り名は、どのようにして与えらえたのかね。或いは、自分で名乗りだしたのか。話してくれ給え」
「祖母が生前、カトリックの枢機卿カーディナルを務めていたので、そこから取りました。この服も、その法衣に手を加えたものです」
彼女は胸元に提げた金のロザリオに手を掛ける。鮮烈な赤をした服の布地は枢機卿のそれに違いないが、そのシルエットは黒の女王らしく、魔女然としたものに仕立て直されていた。肩マントにあてがわれている十字架をあしらったレースが持ち主の過去を想像させる。
「なるほど。それにお嬢さんもどうやら"名ばかり"ではないらしい。肩書こそ持ってはいないようだがね」
「……それが、あなたの言う資格なんですか?」
「いいや。お嬢さんが困難に立ち向かう力を持っていることは、ここへ招いた一要因に過ぎん。そう慌てて答えを探す必要は無い、じきにわかることだ」
老人の一方的な語り口は、彼女の質問をそこで打ち止めにするには至って効果的だった。彼女は何を言葉にするでもなくスカートの端をきゅっと握りしめる。
「さて、もうわかり切ったことだろうが、お嬢さんには今からこの塔を上ってもらう。ただ上るだけだ。貴女にそれ以上の事は求めないし、それ以上の何かを為すことも出来ないだろう」
「それはルールとして、ですか」
「そうだ。だが、破ったらどうなるという話がしたいのではない。無意味だからやめろというだけの話だ。私は無為な徒労を眺めるためにこの塔を造った訳ではない」
「……わかりました」
老人のその言葉は、暗にそれ以外の明確な目的があることを示唆していた。彼女もまたそれに気付かない程愚かではなく、聞き返したとて答えが得られない事が解る程度には利口だった。
「そしてもう一つ。塔を上るには、扉を探すといい。扉の在り処は、お嬢さんが一番熟知しているはずだ」
「……」
「聡明なようで結構。長話は退屈だろう、先へ進むと良い」
老人の椅子の背後に、青黒い片開きの扉が現れた。鈍い彩りでも、モノクロの空間には良く目立っている。彼女がそれを見遣り、ひとつ瞬きをすると、老人はその場から消え失せていた。彼女が扉に歩み寄るほどにハウリングのような耳障りな音が強まっていき、彼女が扉に手を振れると視界はホワイトアウトした。
4. 偉大な人
「これは……上の階に来た、んですかね」
視界が回復した彼女は、じんと凍みるような寒さの廊下に立っていた。赤絨毯に白塗りの壁、それがうっすらと剥げて木目が浮いている。彼女はこの、薄ら黴びた薫りの廊下を知っていた。ぱちぱちと小さく弾ける音に導かれるように、一番奥の部屋の前まで歩みを進めていく。その部屋の扉の前で耳をすますと、ぎし、ぎしと木材の軋む音が聞こえてくる。その部屋の先にあるものも、彼女には予想がついていた。しかしほんの少し残った躊躇いを拭いきるように、手鏡を取り出す。しかしそれが期待したような働きを見せることはなく、ただ彼女の顔を映すばかりだった。
しばしそうして扉の前に立ち尽くしたのち、そっと扉に手を掛けた。
「入るね……グランマ」
扉の向こう。煤けた暖炉とロッキングチェアに揺られる老婆、その古典的とも言える組み合わせは、彼女の──黒の女王になるよりずっと前の、色褪せた記憶に残っている光景だった。彼女は、これが自分の過去の追体験であるという事をすんなりと呑み込んでいた。
「ああ、アリソン。よく来たね……言いつけは守ったかい?」
「うん……ちゃんと、一人で来たよ。パパにもママにも言ってない」
老婆は、彼女が本来あるべき齢よりずっと年を重ねている孫娘を前にしても、それに気付く様子はない。不都合な矛盾は無いものとして処理されるようだ。そして彼女もまた、そうした懸念に囚われず記憶の中の彼女を演じた。そうするよう操られている訳でもなく、彼女は純粋に、この空間の掟を理解し始めていた。
「なら、いい……アリソン、おまえは本当に素直でいい子だよ。おまえの両親にも見習わせたいくらいだ。私の立場じゃ、"そのまままっすぐ生きなさい"って言い聞かせるのが正しい在り方なんだろうがね。あいにく、おまえにそういう生き方はさせてやれなさそうだ。情けない話だがね……」
「グランマ……」
老婆は火掻き棒を杖代わりにして立ち上がり、這うような足取りで歩み寄り、孫の右手を両手で握る。数多の傷跡で厚ぼったく硬い、働き者の手だ。
「いいかい。私がこれをおまえにやるのは、墓場に持っていくよりはマシだから、ただそれだけだ。そも、こんなものが無くとも、力はおまえの中にある。これは誓いだ、力を正しく使うという誓い。力を使うべきか迷った時は、これを握り締めなさい。そうすれば……まあ、おまえの決断の後押し程度にはなるだろうさ」
そうして老婆は、彼女の手にロザリオを握り込ませた。変色も濁りもない、純粋な金色を呈したロザリオ。彼女が黒の女王になってなお、肌身離さず身に着けているそれだ。
「おまえの中にある力は、杖のようなものだ。剣つるぎにはならん。おまえが生きていく中で、躓きそうになった身を支える程度のもの……そういう意味では、この火掻き棒と何ら変わらんさ。後は時折、隣人のことも支えてやればいい……わかったね」
彼女が頷いて返すと、老婆は何事もなかったかのようにロッキングチェアに身を預け直し……それきり、彼女に視線を送ることすらしなかった。
「もう行きなさい、夜が明ける前にね」
「うん……おやすみなさい、グランマ」
彼女は静かに部屋を出て、廊下を進む。記憶の中の彼女は、これきり祖母と会うことは無く。ただ、随分と経ってから、とうに死んでいたことを聞かされたのを、彼女は憶えていた。彼女はその頃から、己の両親の不自然な歪を、幼いながらに感じ取っていた。しかし、彼女の祖母がそれをどこまで知り、どこまで未来を見通していたのか。それを推し量ることは出来ず、こうして再度まみえても尚、答えは出なかった。
一つ角を曲がって、突き当たり。本来なら大聖堂へつながる扉は、不自然に青黒く染まっていた。
5. 聖人の条件
人間は無意識の生き物だと、いつかのどこかで語る人が居た。カルディナがそれを思い出したのは、青黒い扉を開いた先が、図書館の自分の居宅によく似た、別の記憶の中の部屋だったからだ。
「私の、部屋だ……」
彼女が幼少期を過ごした、子供部屋。彼女はそこに深い思い入れも、未練もないものと自負していた。しかしそれでも、本棚の位置やベッドの向き、机の上……それらが、彼女がいま身を寄せている部屋とそっくりで。無自覚のうちに似通らせてしまったその部屋に、なぜいま自分が居るのか。言い換えるなら、この部屋に残されたパンくずは何なのか。それを探るように、視線を巡らせ……
「あ……」
机の下、ごそごそと小さな物音がする。彼女がしゃがみ込んで覗き込むと、そこには小さなケージがひとつ。ケージの中には、モルモットが1匹。彼女はそれを見て、朧気だった記憶がたちまちに影形を取り戻していくのを感じた。
彼女は咄嗟にケージを手にしてきょろきょろと辺りを見回し、窓を開いて庇の上にケージを隠す。それから大急ぎで窓を閉じたところで、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「はい、居ます。ダンテ叔父さん」
「俺だとよく判ったな。今日来るとは伝えてなかった筈だが」
黒の法衣に身を包んだ初老の男は、その死に切った表情筋を僅かばかり動かし、驚いた様子を見せる。
「下で、お母様と話してらした声が聞こえたので」
「そうか」
本来であれば初等科の女児の私室だというのに、それをまるで気に欠ける様子もなくずかずかと上がり込んできたその男──彼女から見て、母の兄にあたる存在──は、何を断るでもなく本棚の前に立ち、それを物色する。
「宜しい。勤勉に日々を過ごしているようだ、お前の親父と違ってな」
彼女の母方の血筋は名実ともに聖職者の家系であり、1,2世代に1人ほどの割合で資格力をもつ人間が現れていた。彼女の祖母がまさにそれであり、彼女もそれに等しかった。しかし彼女の叔父にそれはなく、ただ凡庸な神父の位に留まっていた。叔父が己の無才を嘆く事はしなかったが、その代わり才有るものには自身の理想を押し付ける習性があった。
彼女のタイムラインにおけるギアーズは、婿入りの立場にあった。周囲には母方の血筋の人間の目が多く、東洋人の血が混ざった彼の事をよく思わない血縁者も多かった。叔父もまたギアーズを頭ごなしに否定する立場の人間であるとともに、ギアーズの娘たる彼女には"ギアーズのようになってほしくない"というエゴを執拗に発揮していた。
「……ありがとうございます」
無論、彼女は賛辞を素直に受け取っているわけではなく。ただ、少しでも早く、彼にここを立ち去って欲しかった。
……思い出してしまった、埃を被っていた記憶。それを追想したくない思いでいっぱいで、ドクドクと鼓動が脳天まで響き渡っているのを感じる。
「あの男は仕事と言い張り外出ばかり。学者を名乗ってはいるが、少しでも学があるならあれが妻子を持つ者として正しい姿ではない事ぐらい解りそうなものだ」
「ごめんなさい……」
「お前が謝って何になる。お前は変わらず、そうして粛々と生きればいい。そうすれば神はお前に流れる、忌まわしい東洋人サルの血も清めて下さるだろう」
歯に衣着せぬ物言いで、当然のようにギアーズを蔑むその男を前に、彼女はじっと目を伏せて黙り込む。もはや何らかの行動に起こす余裕は彼女になく、ただ感情を押し殺して耐え忍ぶしかできなかった。
「お前はもう少し、愛想というものを学んだ方がよさそうだな。あの男に育てられたなら当然かもしれんが……まあいい、俺はもう行く。愛想の作り方はお前の母親にでも聞いておくんだな」
そう言い残した男が部屋から立ち去ると、部屋の扉が青黒く変色する。それを見届けた彼女は胸元を押さえ、その場にペタンと座り込んだ。
彼女は今、実際の過去と異なる結果を迎えていた。彼女には、そうしてでも変えたい過去があった。しかし次第に冷静になる思考が、己の行いの意味を問いかける。
"私は無為な徒労を眺めるためにこの塔を造った訳ではない"──老人の言葉が脳裏に浮かぶ。諦めに近い予感を確かめるため、ふらりと立ち上がり、扉へ歩み寄り、開いた。
6. 愛の所在
「また……」
扉の先、次の回想。然れども、光景は変わらず子供部屋。それが単に、2階層続けて彼女の部屋が選ばれただけの事だと理解するのに時間は掛からなかった。
そして机のほうへ歩み寄り、恐る恐るその下を覗き込んで──
「……やっぱり」
──彼女が覗き込んだそこには、空のケージがあるばかりだった。それは記憶の中の彼女が何・度・も・見た光景に等しく。
「また、そこに居たのか。薄汚い畜生なぞにいつまでも未練がましく……」
もはやノックも何もなく部屋に踏み入ってきた男は、机の下でしゃがみ込む彼女を見れば溜息ひとつと苦言を漏らす。
彼女は何も喋らない。
部屋の片隅には、床板を一か所だけ張り替えた跡があった。それは、先ほどの回想では無かったものであり、"落ちない汚れ"がこびり付いたから替えざるを得なかったものだった。
「お前から下賤な趣味を取り上げてやったんだ。感謝こそされど文句を言われる筋合いはないぞ」
言い返してはいけない、抑えろ。そう自分に言い聞かせ、男の言葉を必死に聞き流す。
「全く、それもこれもあの男が研究者なぞやっているからだと思うと腹が立って仕方ない。あの男を見習うなと再三言い聞かせたというのに、お前はどんどん期待外れに──」
しかし、彼女の行き過ぎた自制心は、爆発的なまでの反動を招いた。
「あなたに……」
「ん?」
「あなたに、何が分かるって言うんですか。父さんのことを、ギアーズのことを。私ですら何にも解らないのに、何を!教えてくださいよ!」
彼女はそれが、自分が人生において初めて怒りという感情を顕わにした瞬間だと気付いた。よりによって、得体のしれない塔で、過去を見せられながら。彼女の毅然とした剣幕と、咄嗟に出た手で掴んだ胸倉は、男を黙らせるには十分すぎた。
「……」
「あ、ええと……」
唖然とする叔父を前に、彼女ははっと我に返る。そしてきょろきょろと目を泳がせたのち、叔父を押しのけて部屋を飛び出した。部屋主が居ないであろうギアーズの部屋へ続く扉が青黒く染まっているのを見れば、それ目掛けてもつれ込むように手を伸ばした。
彼女がミディを夢想するたび、彼女の中には一つの命題が深く深く根を張り巡らしていた。"ギアーズとは何者か"……無論、変わりない事実としては"彼女の父親"だ。しかし問題はそうも単純ではなく。黒の女王として看守を襲撃してまで取り戻そうとしているギアーズが如何様な人間なのか、彼女はそれをまるで説明出来なかった。そんな命題は"なぜギアーズを取り戻したいのか"という、より根底を揺さぶりうるものにまで成長し……その問の答えが出せないことが、彼女を日に日に追い詰めていた。
その部屋に飛び込んだのは、あくまでも次の階に進むためだろう。しかし彼女が、この塔に入るよりも前から答えを求め彷徨っていることは紛れもない事実で、この塔にある種の期待をしているのも事実だった。
ドアノブに手を掛け、扉が開ききるより先に体を押し付けるようにして次の階層へ滑り込んだ。
……それから、彼女は数階層にわたって単調な回想を経験した。大した出来事にも遭遇しない、無為な数年間。実際、彼女の幼少の記憶は"その日"に近づくほど淡泊なものになっていた。
そして、それらの記憶には共通点がひとつ。
「ここにも居ないんですね……父さん」
9階層目。ギアーズの私室に放り出された彼女は、記憶の中の彼女が父親の部屋に忍び込んだ時と同じように、その部屋から父親の面影を感じ取ることは出来なかった。本棚には小難しい学術書が並んでいるがそれらに折れ跡はなく、それらしく置いてあるビタミン剤は1粒だって減っているようには見えない。
「……」
唯一、彼の存在を感じ取れる──と、彼女が信じたがっている──のは、机の端の写真立て。几帳面に埃をぬぐい取られたそれに収められた、彼女とその母と、ギアーズの写真。不愛想なその顔が、彼の性なのか仮面なのか。
その問いの答えを確かめられる、最初で最後のチャンスが迫っている事を、彼女は確かに感じていた。
7. 往く人/轍
異様に穏やかな夏だった。空虚な日々を曖昧に暈していたその陽光は、その日のための麻酔薬モルヒネだったのかもしれない。
いつも通りの食卓だった。父も母も居て、ダイニングテーブルにはカプチーノとコルネット、それから彼女の皿にだけカラメルビスケットが2枚。何の変哲もないと、少なくとも当時の彼女はそう思っていた朝。しかし今の彼女が見れば、父と不自然に視線が合わない事に気付かざるを得なかった。
「あ……」
何か言葉にしようとして、彼女は、当時の自分がどんなやり取りをしたのか思い出せないことに気が付いた。それはその日が特別という訳ではなく。かつての彼女が日々の中で、ギアーズとどのような言葉を交わしたのか。彼女の記憶にはほとんど残っていなかった。しかし漏れ出た言葉を引っ込めることは出来ず。初めて目が合ったギアーズに、何か言葉を続けざるを得なくなってしまった。
「……父さんは、私の父さんだよね」
「そうですよ、アリソン」
彼女の、何の脈絡もない唐突な問いに対し、ギアーズはまるで用意していたかのように淡々と、間を開けずに答えて見せた。
「どこにも、行かないよね……?」
「もちろん仕事には行きますが、帰ってきますよ」
いつまでも纏まらない思考と裏腹に、彼女は無意味な質問を重ねた。そしてギアーズはそれにもまるで動じることはなく、淡々と肯定した。
当然のように彼の口から出てきた、"帰ってくる"という宣言。それが、この階層で何らかの成果を得なければと過熱していた思考を、一気に氷点下まで凍てつかせた。すっかり黙りこくってしまい、それ以上ギアーズと目を合わせる事も出来ず、渦を巻くカプチーノの水面に視線を落とす。
「では、時間なのでお先に。アリソンも遅れないように」
「……帰ってきてね」
「はい、勿論です」
結局、彼女は最初で最後のチャンスをまるっきり棒に振ってしまい、ただ彼が皿とコーヒーカップを片して家を出ていくのを、椅子から立ち上がることもできずに見送ってしまった。
彼が出て行った後の扉が、青黒く染まる。今更追いかけようと、陽炎すら掴めないだろう。
8. 血と力
血は鉄の味がするというが、血の臭いと鉄錆の臭いは、まるで違う。ただ一点、どちらも極めて不快だ。
「アリソン・チャオ。お前の事だな?」
「……」
彼女の叔父がもつ教会の大聖堂。その正面を飾るステンドグラスに、概ね人の形をした肉塊が逆さ吊りの姿勢でべったりと貼り付いているのが見えた。刳り抜かれた胸部からはみ出している肥大化した心臓らしき器官が、大袈裟に脈打ちながら時計回りに一回転しては、巻きバネのように逆回転するのを繰り返している。
叔父をそのオブジェに作り変えた男は、赤黒いローブを身に纏い、顔も見せぬままそのオブジェの真下で彼女を待ち構えていた。聖堂のいたるところに飛び散る血肉からは、まだ腐敗臭すらしない。
「アリソン……?」
「ママ、入らないで」
青黒い扉を抜けた先がその聖堂の入口だった彼女は、単に聖堂の外から彼女に続くつもりで踏み入ろうとした母を押し返し、既に色を失っている扉を閉じた。その行動に、ローブの男は少しだけ意外そうな顔を見せる。
「なんだ。下調べには"内向的で臆病、力を利用することに消極的"とあったが、随分とやる気じゃないか」
「……」
その報告に間違いは無かった。確かに当時の彼女は、この光景を前にして立ち向かうどころか、ロザリオに手を伸ばす事すらできず。結果として、"身を挺し彼女を庇った母親"という後押しを得てようやくその場から逃げ去る選択肢を手にしていた。
男が手にした"肉付きのいい"錫杖の石突をカンと鳴らすと、そこらに散乱していた血肉が意思を持つかのように蠢き、錆だらけの剣を手にした人形と化して彼女ににじり寄る。
「まあいい、大人しくしておけ。そうすればお前の叔父みたいには──」
「それ以上、喋らないでください」
血の赤に紛れない赤をした法衣が僅かにはためき、光を凝集させたように煌めく十字架が立て続けに出現する。それが王冠のように彼女を取り囲んだ。男はそれを見てもなお彼女を甘く見れるほど愚鈍ではなく。警告のフェーズを早々に切り上げ、彼女の無力化へと舵を切る。
「威勢だけじゃあ……ないようだな」
「……」
男が錫杖を二度鳴らすと、肉人形らが一斉に彼女目掛けて剣を振り翳し、その不安定な肉体を躍動させて彼女に襲い掛かる。明確に自他を区別する皮膚をもたないそれは、彼女に迫るほどに一体化していき、もはや高波のような有様だ。
しかし彼女がそれに動じることはなく。胸元で輝きながら重力に逆らう金のロザリオを握りしめると、その十字架が丸鋸のように彼女を中心に回転し、肉塊を蹴散らしては悉く沈黙させていく。彼女の方へ飛び散った肉片は、彼女の周囲で見えない壁に阻まれるように滴り落ちて、床に輪染みを作った。
「無駄だ、血肉に命はない。形を崩そうと、また作り直すだけ……だ……?」
「……そうですか」
男は不遜な態度を崩さぬままに肉塊へ指示を送るも、人形の残骸が再び形を成すことは無く。代わりに血肉の山には無数の十字架が突き立てられ、煌々と光を放っていた。
「お前、何を──」
「消えてください」
磔にされていた叔父の死体の心臓を十字架が貫く。ステンドグラスが砕け、その死体が男の上から降りかかる。電気ショックでも浴びているかのように痙攣する死体が、その体の内側から光を漏らしながら男に抱き着いた。
「やめろっ……この、離せ……あ……」
ぱんっ、と淡泊な破裂音と共に閃光が周囲を包み──ローブの男や叔父の死体は、そこらの肉塊との区別を失った。
彼女は、自分が握り込んでいたロザリオが既に光を失っているのに気付く。やり口を咎められているような気がして、少しばかり眉をひそめるも、それ以上の感情を顕わにすることはなかった。聖堂を照らし出していた十字架がまばらに消失していく。
「あ、アリソン……?」
「入らなくていいよ、ママ。もう終わったから」
「よく、わからないけど……守ってくれたのよね?ありがとう、アリソン……」
「……」
「ちょっと、アリソン?」
もはや脅威のない聖堂を一瞥もせず、母親の声にも応えず。再び暗青色を取り戻した扉を開いた。
9. 日陰者の図書館
人間の記憶が集積する場所、という曖昧な定義において、図書館と粗大ごみの山は共通項をもつ。前者は人間が意図して残した記憶の集合体であり、後者は人間が捨ててもなお残る記憶の堆積物である。そしてとりわけ、彼女の目指すところの図・書・館・は、むしろ後者の性質に近しいとさえ言えた。
一歩一歩を踏み出すたび、何かがぱきぱきと割れる音がする粗大ごみの集積所。主に金属やプラスチックのごみで構成されているため悪臭こそしないが、おおよそ用のない人間が近寄る場所ではない。
「確か、この辺りに……あった」
彼女は当時の記憶を頼りに、扉の先で放り出されたその屑鉄の城を歩く。目を射す斜陽を避けるように暗がりを行くと、ふいに吹き抜けるような冷気を感じた。その元をたどれば、そこに待っているのは薄汚れたアイボリーの冷凍庫。当然、それに電気は通っていない。ましてや通っていたとして、正常に動くとは思えない有様のそれの半開きの扉から、うっすらと青白い光が漏れている。もはやその正体を知っている彼女は、躊躇いも情動もなく扉を開き、腰を屈めて光の中へ潜る。
青空と形容するには些か白みが強いペイルの空間を淡々と歩く。それを妨げるものはなく、遠景に見えるシルエットばかりの街並みは、どれも彼女にとって見覚えのないものだった。しばらくそのまま歩き続けると、オリーブ材のドアがポツンと彼女を待っていた。
「何て名前だっけ……」
ぼそりと呟きながら、扉を開く。紙の黴びた匂いが薄らと漂った。
"天井から本棚が生えている"。当時の彼女が最初に抱いた感想はそれだった。その空間の異常な点は枚挙に暇がないものだったが、それゆえに結果として、辛うじてそれが何か判る物体が最初に目についた。そして異常なのは物体だけではなく。
「いやはや、最近は来訪者が多いね。まだ2つ前に来た豚っ鼻の少年の名前も憶えてないっていうのに。初めまして、二腕二脚のお嬢さん。迷子ではなさそうだね」
「……思い出した、バセラだ」
「おや、何処かで会ったかな?すまないが、まるで思い出せないよ」
概ね蟻に見える体長1m強の生物は、頭に被ったシルクハットを外しながら会釈して見せる。彼女もまた、当時は被っていなかった真っ赤な魔女帽を外して挨拶を返した。
「いえ、ここを招待してくれた人があなたの事を話していたので」
「なるほど、外の連中か。まあ何人か思い当たるね。して、君はどうしてここに?」
「……ここに来れば、やるべきことが見つかると聞いて」
彼女は当時の記憶を手繰り寄せ、出来る限りそれに沿って答える。ギアーズを前に何も成果を得られなかった彼女は、もはや早くこの塔を昇りきることだけを考えていた。その手っ取り早い方法が、過去に従う事だというのをそこはかとなく理解していた。
「ふむ。僕はその誘い文句をふる人間を知っているよ。君は何か大事なものを失って──少なくとも、僕らアリモドキモドキの感情機能では表現しきれないような──失意の中にいる。そうだね」
「……はい」
「何を失ったか、聞いてもいいかな?」
「…………家族を。父さんはどこかへ居なくなって、母さんは二度と歩けなくて、他はみんな死にました」
「なるほど、なるほど」
蟻は彼女の説明を、その叩けば折れそうな細い首をコクコクと時計回りに回して聞き届ける。
「出会ってすぐで答えを寄越すのも不躾かもしれないが、君のやるべきことはひとつだろうね」
「と、言うと……?」
彼女は蟻の言葉を聞き届けながら、当時の記憶が越冬したダンデライオンのようにみるみる蘇っていくのを感じていた。
「君はきっと、全てを失ってここに来たんだろう。ここは確かに、そういう人の助けになれる。だけど失ったという事実を捨て去ってまで、新しい自分を求める事は……たぶん、難しい。過去の自分と今の自分を不連続にすることは出来ないんだ。僕らは命が三つあるからそうでもないんだけど、話がややこしくなるから黙っておこう。さてそんな、過去の君と運命共同体な今の君には、取り戻せるかもしれない過去もある。わかるかい?」
「……父さん」
「そうだ。解っているじゃないか」
「でも、どこに行ったのかなんて全く分からないし……」
「それこそ、この場所──図書館の出番さ。失せもの探しなら、ここより適所はないよ」
「……」
彼女は、父親を取り戻すという発想に初めて辿り着いたのが今この場所である事に気付いた。彼女は当時の自分がどのような心境にあったかまでは思い出せなかったが、何処の誰ともわからぬ多弁な蟻にその先の人生の指標を与えられていたという事実に直面して、少しばかり唖然とした。
「まあ、散々喋った後だけど、こんな玄関先で結論を急ぐのは野暮ってものさ。ここは附属エリアだからね、ちゃんと本が揃っているのはもっと先だ。君がどうするかは、そこで君が決めるといい。ただ……」
「……ただ?」
「今の君は余りにもミザリーだ、救い難い顔をしている。折角子供なのだから、もう少しハピネスに振舞ってみるといい。その方が、きっと他の連中も手を差し伸べやすくなるだろうさ」
彼女は、当時の自分の愚直さに重ね重ね呆れていた。"他人に流されるにしても、ここまで安直でなくともいいだろうに"……そんな思いが、彼女に乾いた笑いをもたらしたが、元より大した感情の起伏を持たない蟻には笑いの区別などつかなかったようだ。
「それでいい、いつでも元気に振舞う事さ。折角君たちには恵まれた筋肉があるのだからね。僕たちなんて中に詰まってるのはドロドロの液体なんだから!はっはっは……」
"感情の起伏もないのにジョークは言うのか"。そんな冷静でドライな感想を抱きつつ、彼女は図書館の中心地へと歩みを進めた。あの蟻に言われたとおりの──或いは、それ以降カルディナが徹している──笑顔を振りまいて。
そこからの数階層は、彼女が黒の女王になるまでの"奇妙である事以外平凡な"日々と、黒の女王になってからの職務を順当に回想した。ここまで登ってくると、彼女は記憶の中と現在の自分での肉体的な違和感も記憶の欠落も感じられず。意識はただ一つの予感にだけ向けられていた。
そして、16階層目。扉の先は蝋燭に照らされた仄暗い一室。凡そ、物を書き綴る場としては相応しくないその場所は、もはや彼女の予想を裏切るものではなく。
「黒の女王、サルビア……知識人、ってことで呼ばれたらしい」
「アタシは冬緑トンリュー。鍵師、花屋、それからもちろん、黒の女王」
「黒の女王・ミディ。有意義な時間にしましょう」
「……黒の女王のカルディナです。よろしくお願いします!」
10. 落輪
「"収束の星冠"は、多くのタイムラインで王冠の形状をとっている装身具を指すものね。星冠は、着用者の欠落を充足させるために作用するわ」
「具体的には、星冠を被った対象者に不足しているものを地球上から誘引し、対象者のもとに集める作用がある。"不足"を星冠がどう判断しているかはわからない」
黒の女王の最終目的は、ギアーズの奪還にある。彼女たちの職務たるカタログ編纂は、そこに到達するための足掛かりの過ぎない。しかし図書館は、その手段を目的に変えてしまうほどに、情報の奔流の中にあった。
「ずっと遠くからものを引っ張ってこれるというのは……その、興味深いです。地球上に働く特殊な力は無数にあるはずなのに、どうしてそんなことが可能なんですか?」
「紐を手繰り寄せるようなイメージよりむしろ、テレポーテーションに近い。星冠と、引き寄せられるものたち。それらを結び付ける"根拠"があれば、それらは引き合わされる」
何か一つ、興味深い異常存在を見つけては情報を纏め、それが完了する頃には次なる関心が生じる。単に彼女たちが研究者であるならば、この上ない好環境といえよう。しかし彼女たちはそうではない。にもかかわらず、図書館という極端に閉鎖的でいて無限大に開放的なその空間は、彼女らの営みに生じていた歪みを巧妙に覆い隠していた。
「あなたにその時欠けていたものは、本当にお金だったの?」
「そうだね、親父が消えてから、とにかく金に困ってたから」
その日もまた彼女らは、真鍮の歯車がきちきちと珍妙な音を立てる記録装置を取り囲むようにして、それに疑いなど僅かばかりも持たず編纂を行っていた。ただ一人、ミディを除いて。
「このタイムラインは……ミディさんのいたところですね!」
「……ええ、そうね」
そんなすれ違いが生んだ結果を、彼女は知っていた。その目で、見届けた。
「ねえ。ひとつ聞いてもいい?」
「どうかしたの?ちょっと今日変だよ、あんた」
だから、この塔のルールを理解してもなお、カルディナは。
「もし、星冠がいま手に入ったら。あなた達は、何が得られると思う?」
「フカフカの寝床と美味しいご飯でしょ。ここの暮らしに苦痛があるとは言わないけど、やっぱり人間の食文化にチューニングされた食事は恋しくなるよ」
「はぁ。私は……睡眠時間がほしい」
「私は…………ギアーズを、きっと取り戻せると、そう信じています」
カルディナの答えを聞いたミディは、眉を僅かばかり持ち上げる。それ以上何か言葉にするより先に、他の彼女たちが割り込んできた。
「ちょいちょい!それはずるでしょ、その答えで良いならここに居る全員同じ答えになるよ」
「それ以外の答えを想定してるからミディも聞いたんだろうに……そうでしょ?」
「へっ……?え、ええ、まあ……」
ミディにとって思わぬ方向に流動していく話題に、彼女は少しばかり面食らった様子でしかめ面を崩した。
「でも、本当に私は星冠を手に入れてギアーズを取り戻すつもりでここに居るんです!」
「気持ちはわかるけど……正直、賛同はできない」
「……理由を聞いてもいいかしら?」
「やっぱり、私は星冠の力には代償があるとしか思えない。余りにも都合がよすぎる。それに……」
「まあ、力尽くで連れ戻す手段なら他にない訳じゃないよね。それじゃ根本から解決しないからこうして集っている。そうでしょ?」
冬緑の割り込みに対し、サルビアも不愛想なまま頷く。曖昧な表情で言葉を濁らせたミディの横で、カルディナもまた伏し目がちに奥歯をすり合わせていた。
「強引に取り戻したとて、看守との鎖を絶たなければ解決しない……そうよね、その通りだわ」
「……ミディ?」
「えっと、話がそれちゃいましたね!カタログを作ってるんですから、ミディさんのタイムラインの星冠がどうなっているか、って話に戻らないと」
「……そうね」
はぁ、と小さく溜息をこぼす。それから言葉を続けた。
「星冠は壊れたわ……ある日突然、粉々にね」
11. 無為の正道
「カルディナ、少しいいかしら」
「……はい?どうしました?」
そのまま、編纂作業は──本来の未来とは異なり──何事もなく終わった。彼女たちがぞろぞろと部屋を去っていく中、ミディは同じように去っていこうとするカルディナを呼び止めた。他の黒の女王たちはすっかり居らず、二人きりだ。
己の感情を押し込め、ただ次の階を目指そうとしていたカルディナは、少し間がありながらもカルディナを取り繕ったまま応じた。しかしミディはその様子を見て、余計に眉をひそめた。
「それはもういいわ……気付いてたんでしょう、貴女」
「なんの事ですか?」
「視線がずっと、私の頭上に泳いでいたわよ……どうやって気付いたのかしら」
しらばっくれるカルディナに対して、ミディは自ら星冠を顕わにし、さらに追及する。返答次第でどうにかしようという意志は感じないが、それでも生半可な誤魔化しは許さないような気迫を放っている。
「何となく、嫌な予感がしたので……それに、前から怪訝そうな顔をよく見せていましたからね。カタログを作っている時以外にも、時折」
後半に関しては、カルディナの言葉に偽りはなかった。ただしそれに気付いたのは、こうして塔を昇り、黒の女王としての日々を回想してからのことだった。回想してようやく、自分がカルディナとして振舞うことに手一杯だったと知ったのだ。
「そう。なら、そういう事にしておくわ」
「いいんですか?こんな説明で」
カルディナの説明は余りにも不十分だった。なぜ星冠を持っていると気付いたのか、あるいはそれを用いて彼女たちに害を為そうとしていると気付いたのか。そういった説明はなく、ただミディが害意ある手段を択ばんとしていたことに気付いた理由しか語っていなかった。にもかかわらず、ミディは先程までの鋭利な威圧感を収め、さらなる追求を避けた。
「構わないわよ。事実としてあるのは、血が上って盲目になっていた私と、それに冷や水を掛けてくれたあなたがいたという、それだけのこと。今更、間違いに気付いて尚突き進めるほど愚鈍でもないわ」
「……」
「私ね、彼女たちの目的なんて形ばかりで、ギアーズのことはとうに諦めているものだと思っていたの。標識だの畜生だの、まるでギアーズ奪還に繋がらないようなものばかり調べては纏めて、そうやって無為に過ごして目を背けているのだと思っていた。でも、彼女たちもまた必死だったのね」
「……」
「なりふり構わず動いていて、それゆえに空回りも多かった、ただそれだけの事。できない理由ばかり集めてどこにも行けなくなっていた私より、ずっと立派じゃないの……本当に、気付けて良かったわ。ありがとう、カルディナ……」
「……違う!」
己と向き合い、凶行を未遂のままに留めおいたミディ。彼女はすっかり憑き物が落ちたような眼差しでカルディナに歩み寄った。しかし、カルディナから飛び出したのはそれを拒むかのような一言で。
「……カルディナ?」
「違うんです!こんなことをしたって、なんの意味もないんです!ミディさんも、みんなも……」
……カルディナはついに、過去に身を投じるという行為そのものから逸脱してしまった。一度崩壊した感情の奔流を抑え込むことは出来ず、この塔のことも、本当にあった未来のことも、全てを話してしまった。
「……成程、話は大方理解したわ。はぁ……なんとも情けないわね、本来の私は」
この塔の主がそうした行いを想定していたのかはさておき、ミディはカルディナの言葉を至ってすんなりと受け入れてしまった。カルディナの先程の説明の歯切れの悪さが、かえって今の説明を信じさせる要因になっていたのだ。嗚咽を漏らしながら落涙し、息も絶え絶えに告白したカルディナの背をさすりながら、ミディは本来の自身が辿った末路を苦々しい顔で噛み締めていた。
「いいえ……これは、私達、みんなの責任ですから……でも、悔しくて。本当なら選べた未来を選び損ねたという事実が、どうしても……今だけじゃないんです。過去の私だって、何度も、幾つも……」
一頻り絞り出したカルディナは、ようやく落ち着いた様子でぐずぐずの顔を拭い、言葉を連ねる。これまで、カルディナが過去に経験してきた転換点。それが好転させ得たものでると突きつけられるたび、彼女はこれが回想に過ぎないという事実に胸を締め付けられていた。それを聞き届けたミディは、自分がカルディナの記憶の中の存在だと知って尚、いや、そうと知ったからこそ、彼女を静かに宥めている。
「……そんなことをしでかした私が言うものではないけれど、過去の選択なんて、後からならどうとでも言えるものよ。どんなに惜しい結末に見えても、実際のところはそうならざるを得なかった結末に他ならないの。私のギアーズがもう取り戻せないのも、きっと避け得ない現実だった。だからこそあなた達を羨んだし、恨んだわ」
「ミディさん……」
「今のあなたは、私未満よ。少なくとも、私は過去を見限った。取り戻せないと分かったうえで、結末を間違えた。でも今のあなたには、間違った結末を選択する権利すらない」
ミディは、現実の自身の凶行ときっぱり割り切ってカルディナを詰る。そうすることで一番苦しむのがミディ自身であったとしても、彼女はカルディナがここで足踏みをすることを許容できなかった。狂気の中になくとも、ミディのギアーズへの執念は本物であった。
「もう行きなさい。この塔を登り切ったとて、あなたが何かを得られるのか──そもそも、この塔から無事にあなたが帰ることができるのか──私には判らないけれど、ここで泣きじゃくっている場合じゃないのは確かよ」
「わっ、待って、ミディさん──」
ミディは毅然と立ち上がり、カルディナの襟首を掴み、強引に引き摺る。まだ心の整理がついていない様子のカルディナはそれになんとか抗おうとするも、比較的体格には恵まれていないカルディナが幾つか齢も上のミディに敵う筈もなく、そのまま青黒く染まっている──と、カルディナにだけ認識できる──部屋の出口の扉の向こうへ放り出されてしまった。
12. 囚人たち
「それでね、その時捕まえた蝶の羽をレジンで固めて……」
「えぇ……ちょっと悪趣味じゃない?」
ダージリンの香りが彼女の意識を一意に定める。少しばかり座り心地の悪いテラスチェア、芝生を踏む感触、談笑の華。彼女が少しばかし微睡んでいても、それに気付くものは殆どいなかった。
勿論、ミディの姿もない。
「大丈夫?船漕いでたけど……疲れてる?」
「え……い、いいえ、そんなことは。すみません」
唯一、隣に居たサルビアはカルディナのその様子に気付き、多少なりとも気に掛ける様子を見せた。カルディナは小さく首を横に振り、辺りを小さく見渡す。そこはつい先日のお茶会の場、カルディナは殆ど現在まで辿り着いていた。
「じゃあなぁに、悩みでもあるの~?」
「あ、ええと……」
そんな二人のやり取りに気付いた一人が、ふらふらりとカルディナに詰め寄る。それにより辺りの視線が俄にカルディナに寄せられた。
「……その、ミディさんの事で。あの人、事件の前はどんな風に思われてたのかなって」
カルディナは、そんな問いを投げ掛けるつもりは無かった。そも、彼女らに打ち明ける悩みなど持ってはいない。
単に、出任せを言うつもりだった。しかしその苦し紛れの問い掛けは、存外芯を捉えていたようで。
彼女たちは少しばかり顔を見合せたのち、ひとりがポツリと口を開く。
「まあ、暗い人でしたよね。気にはなってましたけど、珍しくは無いし……」
「私たち、何かしら抱え込んでるものねぇ」
「こんな機会がなければ、それこそ話す事もないだろうね」
カルディナは、彼女たちが概ね似たような感想を抱いていたことを知る。それは黒の女王が持つ共通の性質も示唆していた。
「私たちは、救われたがりの集まりなんだろうね。手を差し伸べられるのを待っている割に、手を差し伸べようとはしない。それが私たちだ」
サルビアの、やや詩的表現に偏った物言いは、この場においては効果的に彼女たちの心臓を抉ったようで。誰もが手を止め、目を伏せる。カルディナもまた、それに同じく。
「……また、開きましょうね。お茶会。私たちが、私たちをもっとよく知るために」
"どんなに惜しい結末に見えても、そうならざるを得なかった結末に他ならない"──ミディは先の階層で、カルディナをそう諭した。しかし彼女を支配するのは、むしろそれと相反するような確信だった。
「そうすればきっと、私たちは、私たちを救えますから」
カルディナには最初から見えていた、中庭にポツンと立っている青黒い扉。その前まで歩み寄り、彼女は躊躇いなくそれを開いた。
13. 旅の終わり
扉の先、吹き抜ける夜風が彼女を一息に現実へ引き戻す。1階の閉鎖的な空間とは相反する、柱で天井を支えているばかりの壁すらない空間だ。その気があれば飛び降りる事だって出来てしまいそうな、そんな最上階。当然のように、件の老人が彼女を待ち構えていた。
「途中、少しばかり不安ではあったが。どうにか登り切ってくれたようで何よりだ、お嬢さん」
「……どうも、ありがとうございます」
ここに椅子は無い。老人は、この場で彼女に安息を与えるつもりはないものと見える。そして彼女もまた、この場で歩みを止める気はなかった。ただその広間の真ん中で見合う2人がいるばかりだ。
「さて。貴女はどうやら、私が想像していたよりも聡明なようだ。貴女がこれから何をするのか、おおかた見当がついているのだろう?」
老人の問い掛けに、彼女は首肯したのち端的に答える。
「これだけこっぴどく、変えられない過去を見せつけてきたんですから……"そうじゃなく"しようって言うんでしょう?塔に挑む資格というのも、まさに取り戻したい過去がある事……違いますか?」
「ご明察。君には、過去を買い戻すチャンスを与えよう」
彼女の答えを気に入ったのか、ぱりぱりと皮膚の割れる音が聞こえてきそうなほどに硬く皺だらけの顔を、さらに歪めて口角を上げる。それと対極に、彼女はその老人の濁った眼の奥に潜む悪意に視線を険しくしていた。
「……それ以外の選択肢は用意してないのに、よく言いますね」
「おや、そこから飛び降りれば済む話だが」
「生憎と、この体に翼は生えてないので」
老人は彼女の苦言を鼻で笑い飛ばすと、一振の剣を自身の手元に出現させた。これと言った装飾もない、無骨な剣。塔の外に刺さっていたものに近しい意匠だ、明確に人を殺めるための道具として存在している。
「さて、重々理解の上だとは思うが、何も無条件に過去を取り戻せる訳じゃない。ルールは2つだ」
彼女は軽く頷くだけに留め、老人に一息に説明することを促す。
「まず第一に、過去から持ち出せるのはひとつだけだ。人でも物でも、ひとつだけ──何をひ・と・つ・とするかは、個人の自認に委ねられるが──まあ、あまりインチキが出来るとは思わない事だな。そして、二つ目。過去を取り戻すという事は、それより先の未来を否定するという事だ。それを、君自身に行ってもらう。君は、君自身の手で己が足跡を掻き消さなければならない。私は、お嬢さんが否定した未来を元手に、過去から何かを取り戻した結・果・の未来を用意しよう」
「未来の、否定……」
老人が敢えて選んだその言葉が持つ意味を理解できない程、彼女は鈍感ではなかった。
「全てを語るのも野暮だろう。何か質問は?」
「……ひとつ、いいですか?」
「構わない」
老人は、彼女にその剣を握らせながら、彼女に質問をする権利も与えた。
「ルールは解りました。だけど、こんなことをしても貴方にメリットが無いのが引っかかります。私は無学だから、過去を捻じ曲げる事がどれだけ難しいかとか、どんな禁忌を犯しているだとか、何も知らないけれど……それでも、貴方が何の為にこんなことをしているのか、わからないのは……とても、不気味です」
彼女は、その老人と対等なやり取りができるとは思っていなかった。しかしそれでも、この老人が──それが嘘だったとしても──それなりに納得のいく説明をするという、確信があった。
「ひとつ、お嬢さんの勘違いを訂正しよう。私は人の世の実利主義の円環には居ない。貴女が思い描くような損得の概念を適用すると、いささか食い違いが生じるだろう。まあ尤も、私とて全くのボランティアではないがね」
「……まあ、貴方が真っ当に人間をしているとは考えていませんでしたが。断言されるとそれはそれで疑わしく見えてくるから、不思議です」
結局のところ、老人にとってのメリットは語られなかった。はぐらかされた事は明らかだったが、知ることができる情報の天井を知れただけでも彼女にとっては十分であった。
「さて、もうこんなところで良いだろう。扉は見ての通りだ、さっさと戻るといい。私もいつまでもここに留まりたくはない、老骨にこの寒風は堪える……いや、ひとつ警告をしておくべきか」
「警告……」
「くれぐれも、積み上げたものに未練を持たないことだ。より多くを捨て去った者だけが、先へ進むことが出来る……これは助言ではない。私の思想であり、この塔の掟でもある、決して忘れてくれるな。……では、お嬢さんの新たな日々を祝福できることを祈らせてもらおう」
彼女の背後では、扉の青が鮮やかな赤色に転じている。彼女がそれに視線を向けた隙に、老人はその場から姿を消した。
「……過去を、取り戻す……」
扉の前に立ち、その言葉の意味を咀嚼するかのように反芻する。右手に握りしめた剣の切先を石畳に擦りながら、扉の向こうへと身を投じた。
彼女と現在が切り離される。もう後戻りはできない。
14. 夷険一節
「ああ、いた。どこに行ってたんだか。というか、なにその剣。どこにそんなの転がってたの」
「え、まあ……どこって訳でもないですけど」
扉の先は中庭の、お茶会の会場から少しばかり離れた位置だった。彼女がその階層に降り立った時点で今使った扉は消え失せ、茶会の場へ赴くと彼女たちのテーブルの傍に赤黒い扉が立っていた。
カルディナはその扉へ歩を急がんとするも、サルビアに呼び止められてしまった。
「何を言い淀んでるんだか。他の奴らならともかく、言い出した本人が途中から居なくなるのは流石に良くないでしょ」
「そうですね……すいません」
カルディナはサルビアの苦言に曖昧な返答をしつつ、扉に手を伸ばす。"過去を取り戻したとして、また同じようにお茶会を開く事はあるのだろうか"……そんな事を不意に想起しながら。しかしドアノブはビクともせず手が止まり、扉が見えていないサルビアは彼女の行動がいよいよ理解できず怪訝な視線を向ける。
「ねえあんた、本当に何してるの?」
「やっぱり、開かない……そうですよね」
扉が開かない理由がわからない訳ではなかった。ただ、カルディナはそれを直視する事を恐れていた。そして、恐れを抱いてしまっている自分が事を為せるのか、そんな入れ子構造の不安が彼女の言葉を濁らせる。
「大丈夫……これは私の記憶……本当に、するわけじゃない……」
カルディナはぼそぼそと呟くように自分自身に言い聞かせる。右手に握りしめた剣が重みを増していくような錯覚に囚われる。
「自分の手で否定するってのは、こういう事……だな」
カルディナ抜きで塔について語り合っていたテーブルから、ラジオの録音が流れていた。殆どの部分はカルディナの思考に阻まれ、耳に届く事は無かったが──そのひとフレーズだけが不意に聞こえてきた。
……右手の鎖が解けるのを感じる。
「カルディナ?」
「ごめんなさい、サルビアさん……私は、私の過去を取り戻すために……今を否定します」
カルディナは俯きがちだった顔をキッと上げ、サルビアと視線を合わせ、一歩ばかし歩み寄る。サルビアがその眼差しに動揺したのも束の間、今度はサルビアの視線が下に──己が胸を貫いた剣に落ちた。
お茶会日和の快晴だった。しかしそこに咲いていた筈の談笑はもはや無く、浸水したラジオから途切れ途切れの雑音がするばかりだ。
「……ごめんなさい」
叩き壊されたテーブル、紅茶と汚物の混ざった臭い。砂糖菓子のように呆気なく散った未来の残骸が芝生に転がっている。
何をさせられるか解るのと、覚悟が出来るのは全く話が異なることだ。少なくとも彼女に十全な覚悟はなく──後悔が泥濘を踏みぬいた靴のようにべっとりと染み付いていた。
切先から滴るものをそのままに、扉に手を掛ける。それは何の抵抗もなく彼女を受け入れた。
15. 往日の悪魔
「……あー、貴女が去っても何も起こらないものだから、困ってたのだけど。まさか戻ってくるとはね」
扉の先は図書館の外郭、人気もなければ本棚もない、薄らと紫煙が匂う薄暗い空間。イーゼルや石膏人形など、なぜか美術関連の備品が乱雑に積み上がっている。だれが置いたともなく流れ着いたものだろうが、ヤニの染み付いたそれらが誰かの手に渡ることはないのだろう。
カルディナを前にしたミディは少しばかり気まずそうにしながら灰を落とし、椅子代わりに腰かけていたモチーフ台から立ち上がる。
「随分酷い顔をしているし、物騒なものを引き摺っているし……何があったのか知らないけれど、流石に見てられないわね」
「ミディ、さん」
「まあ、話しなさいよ。今更隠したってしょうがないでしょう?」
既に一度、自ら白状する形でミディに打ち明けているカルディナ。先ほど以上に追い詰められた彼女が、少しでも楽な方へと流れてしまうのはもはや避けがたいことで。涙ながらにとめどなく語った前回と対極的に、今度は言葉が何度も引っかかっては奇妙な沈黙が挟まっている。ミディはそれに何の苦言も呈さず最後まで聞き届けた。
「つまり、貴女が下へ降りるには……まあ少なくとも、ここに居る私は殺さなきゃならない訳ね」
「そう、です」
「ふむ……ひとつだけ教えて頂戴」
ミディは、自身が殺されかねないというのに至って冷静な様子で、カルディナの顔を覗き込むように強引に視線を合わせる。
「……なんですか」
「貴女は、この塔でギアーズに会ったの?」
「…………会いました」
「なら、話は早いじゃない。さっさと私を殺しなさいな。何をそんな、悩むことがあるのかしら?」
あっけらかんと言い放つミディ。ギアーズへの執念か、あるいは己が仮初の存在であると知った故か。何れにせよ、ミディの為すべき事に何の疑いも持っていないのは確かだ。
そんなミディを前にしてなお、カルディナの思いつめた表情は変わらない。むしろ、深刻になったとさえ言える。緊張で滲んだ汗が額を伝い、流れ落ち、次の言葉を声に出すために震える下唇を撫でる。
「私は…………ミディさんと、ここを出たいです」
「……貴女、自分が何を言ってるかわかってるの?」
飄々とした面持ちが一転、ミディは険悪な眼差しをカルディナに向ける。その言葉の底には、静かながらも確かな怒りが孕んでいた。しかしカルディナはむしろ、その思いを口にしたが最後、吹っ切れたように毅然と彼女を見つめ返し、言葉を続ける。
「わかっています。黒の女王として取るべき選択ではないと、そう言いたいんですよね。……でも、これは決して、この手で全てを壊して進むことに恐れを覚えたからだとか、そんな話ではないんです」
「……聞かせてみなさい。下らない事を言ったら、今この場で星冠を使って貴女に成り代わるわよ」
ミディの言葉は、決して脅しではなかった。真に心の底から込み上げる怒りに従って、銃口を突きつけているに過ぎなかった。それでもカルディナは臆することはなく、この塔を登る中で形になった思いを言葉にする。
「私には、解らないんです。仮に、過去からギアーズを強引に連れ出せたとして、どうすれば再び失わずに済むのか。なぜ、ギアーズが私のもとから離れていってしまうのか。解らないまま、連れ戻して、そうして再び失って、何も得られず終わる……それが、何より怖いんです」
「……だからといって、私を助ける理由にはならない。他にも選択肢は──」
「ミディさん。現実の貴女は、多くの黒の女王の命を奪いました。貴女が暴走しなかった未来を選ぶことは、彼女たちを救い出すことでもあります。……"私たちは一つ一つの宝石であって、一人では王冠足り得ない"。ギアーズを真の意味で取り戻すには、彼女たちの力が必要なんです。……この言葉は受け売りですけど、とにかく。貴女を連れ出して、他の彼女たちも助ける。そうする事こそが、黒の女王としてギアーズを取り戻すために真に正しい選択なんだと、私はそう思ってます」
最初の苦悩はどこへやら、言葉を綴り終えたカルディナの表情は純然たる覚悟に染まり、ミディの険しい眼差しをものともしない様子を見せている。そんな彼女の答えを聞き届け、ほんの少しの沈黙。それから、ミディは再び口を開いた。
「貴女の言いたいことは、理解した。その選択が黒の女王として選び取ったもので、ギアーズに辿り着くためのものだという事も理解した。……だけれども、やはり私はその選択を肯定できない。確かに、さっき彼女たちと話していたように、看守との鎖を絶たなければ解決しないのかもしれない。でも、今のあなたが暗中模索であることと、その鎖を絶つチャンスが全くないのとは話が別じゃないかしら」
「どういう、意味ですか?」
「勝算があるからチャンスと呼ぶわけではないの。百あるチャンスと向き合って、初めてひとつの勝利を掴み取れる可能性が生じるのよ。生憎と私にその勝機は無かったけれどね」
自嘲がちな溜息とともに、灰を少しばかり零す。
「それでも私は、百どころじゃない試行の末にここに立っている。そして貴女には、今も生きているギアーズがいる。この塔で取り戻せなかったら何よ、取り戻せるまで貪欲にチャンスを探し続けなさいな。この塔は、その数あるチャンスのひとつに過ぎない……その無駄になるかもしれないチャンスであっても見過ごすなと、私は言っているの。挑まないのと、挑んでもダメだったのでは、まるで話が違うわ」
「……私が努力不足だって言いたいんですか?」
「貪欲さが足りないってだけよ」
「そう、ですか……」
「でもね、貴女のいう事が納得できるのも確かなの。彼女たちを助けることが、新たなチャンスに繋がるのなら、そうするべきかもしれない。どちらの選択が真に正しいかなんてものは、この場では決められないのでしょうね…………だから、こうしましょう」
ミディは吸い殻を床に捨て、ブーツの爪先で踏み躙る。黒レースの手袋を外し、ふわりと真上に放り投げると、一本の細身な黒いステッキに変貌した。それをカルディナに向けて突き出す。
「黒の女王・カルディナ。私を連れ出したければ、力尽くで成し遂げて見せなさい」
ミディの提案は、カルディナの想像していたどんな反応とも異なるものだった。しかしその提案は、カルディナの延々と巡らせ続けた苦悩から一息に解き放つもので。ひとつばかり唾をのんで、それからひとつ頷く。
「……わかりました。確かに、終わらない言い合いをするよりずっといいですね」
剣を置き、胸から提げたロザリオに手を掛ける。彼女の白髪が柔らかな煌めきに包まれた。
"後は時折、隣人のことも支えてやればいい"──祖母の言葉が脳裏をよぎる。
「私は受けて立ちます。貴女と、彼女たちと……ギアーズを、取り戻すために」
16. 十剣の塔
図書館は日夜を問わず仄暗く、距離感の曖昧な天井からぼんやりとした明かりが降り注いでいる。その原理を調べようとする奇人はまず居ないが、本を読むにはもう少しばかり明るくてもいいとは誰しも感じていた。そんな薄ら明かりの空間が、今ばかりは煌々と煌めいている。
「殺す気で来いとは言わないけれど、もう少し当てるつもりで来たらどうかしら?」
「人に当てたことなんてほとんど無いんです!加減が分からないんですよ!」
「じゃあ、殺す気で当てなさい」
床や積み上がった画材から光の十字架が幾つも突き出して剣山の有様となっているその中を、ステッキ片手に掻い潜りながら駆け抜けるミディ。対するカルディナは殆ど一点から動かないままに視線だけはミディを追っている。一見するとミディの防戦一方だが、実際のところその場に残留させた十字架のせいで身動きが取りづらくなっているのはカルディナの方で。ミディはそんな彼女を中心に収束する渦を描くようにして距離を詰めていく。
単に動く的を射止めるならば、設置に頼らずとも直接的に撃ち出せば済む話だった。しかしそうすると、或いは取り返しがつかない事もありうるという恐れが彼女の手を止めていた。
「そんなのは願い下げです、私なりのやり方でやらせてもらいます!」
「威勢だけじゃあ私を止められないわよ」
そもそも、カルディナの持つ異能は邪な存在を祓うためのものであり、人に向けることを目的としたものではない。故にこうした一対一の決闘において出来る事は限られていた。更にはカルディナはミディのもつ異能についての予備知識すらなく、戦いは暗中模索そのものであった。
攻めあぐねているカルディナの元へ接近を果たしたミディは、何の躊躇いもなく手にしたステッキをカルディナの顔目掛けて突き出す。それを辛うじて体を横に傾けて躱したカルディナ、容赦のない一突きに面食らったようで、耳の横を掠めたそれを視線で追いながら目を丸くする。
「本気、なんですね……!」
「何を勘違いしているの?」
どう反撃するか逡巡したカルディナ、しかしそれを悠長だと言わんばかりにステッキの先端が煌めき、小爆発を起こす。爆風でカルディナの赤い魔女帽が宙を舞った。
「……あ、わ……」
「蒼ざめている場合じゃないわよ」
爆風で尻餅をついたカルディナ。しかし外傷は見られず、代わりに彼女を覆っていた光が頻りに煌めき立っている。接近戦を得意とするかのような立ち回りから一転して本性を顕わにしたミディの異能に動揺を隠せないカルディナに対し、ミディは続けてステッキを向け、2発目、3発目……それでもカルディナが傷を負わないとみればステッキを彼女の足元へと向け、床一面に霜を下ろす。それが次第にカルディナの体へ纏わりついていき……そこでようやく彼女は跳ねるように立ち上がった。
「それでいいのよ。続けるわよ」
「……!」
改めてカルディナに向き直されたステッキ、それに直感的な脅威を感じた彼女は自身の目の前に等身大の十字架を繰り出して楯にする。その直後にステッキから放たれた電撃が十字架に纏わりつき、周囲の画材に飛び火しては焦げ臭い煙を立ち昇らせる。
「それなら……っ!」
「そう来るでしょうね、当たらないわよ」
今度は空中に十字架を出現させ、ミディの直ぐ目前に突き刺したカルディナ。狙いは彼女が手にしているステッキだったが、ミディには狙いが読まれていたようで呆気なく手を引っ込められてしまった。
「腹を括りなさいな、それともこの距離でもまだ当てられないのかしら?」
「……違うんです」
カルディナはロザリオを握りしめ、頑なに首を横に振る。未だに軟派な姿勢を見せるカルディナに、ミディは段々と苛立ちすら覚えていた。
「何が違うのかしら」
「貴女を、ミディさんを傷つけるやり方は違うって確信があるんです。きっと、他のやり方があるから、そう感じるんです……!」
「なら……さっさと見付けなさいな!」
山積みになっていた画材が突風で雪崩を起こし、カルディナの元へと降り注ぐ。それを躱すために十字架を一掃し、大きく後ろへ距離を置く。一時的に二人は分断され、カルディナは少しばかりの思考の猶予を得た。
彼女の最終目標は、ミディをこの部屋から連れ出す事だ。カルディナはそれに抵抗し、あわよくば自らの命を奪わせんとするのを目的としており、カルディナの無力化は目的ではない。カルディナはそこに着目し、ミディが彼女の異能を概ね把握している可能性に行き着いた。事実、彼女は自身の異能について黒の女王たちに大方話してあり、ミディが知っていても何らおかしくはない。仮にそうだとすれば、彼女が攻撃性の魔術に対抗策を持っている事も知っている事になり、容赦ない猛攻も意味合いが変わってくる。
「……それなら」
「作戦は決まったかしら」
雪崩の向こうからミディの声がした直後、カルディナの真上から降り注ぐ落雷。遂にボヤは燃え広がり、悪臭どころでは済まなくなった。もはや時間を掛ける事すらできない中で、カルディナはようやく覚悟を決めたかのようにミディへ駆け寄っていく。
「はいっ……お待たせしました!」
「なら、よろしい……っと、狙いを外した……訳ではなさそうね」
ミディの周囲の床に次々と突き刺さる十字架。それがミディの逃げ道をなくす──もとい、一本道にするために突き刺したものであることは明白だった。一直線な逃げ道の行き着く先は、この空間に用意された真っ赤な扉だ。
「それで、私をあそこまでどう押し込めるつもりかしら?」
「それは……こうして、です!」
もはや節操なしに炎を浴びせにかかるミディへと、カルディナもまたなりふり構わず猪突猛進。ミディの懐に飛び込み……そのままひしと抱き着いた。
「……何のつもり?」
「ミディさんを、私のヴェールの内側に入れました……これで、今ミディさんが力を使おうものなら私たちはふたり纏めてヴェールの内側で消し炭になります」
「私が貴女を仕留める気が無いのはバレていたと……はぁ、本当にいい性格してるわね。それで、相撲でもするつもりかしら。悪いけど、貴女には負ける気がしないわよ」
「いいえ……押し切らせてもらいます!」
首から外して握りしめていたロザリオが、呼応するように光を強める。カルディナの背後に、人の背格好ほどの十字架が形成され……
「ちょっと、貴女──」
「歯を……食いしばってください!」
勢い任せに突っ込んできた十字架が、二人を真っ直ぐと突き飛ばす。吹き飛ばされた先は、真っ赤な扉……それを半ば叩き壊すような形でミディの背中がこじ開けて、二人はその向こうへと身を投じる。
「痛っ……たぁっ……貴女ねぇ!」
「ごめんなさい……でも、これで──」
──これで、一緒に塔を降りられる。カルディナはそのつもりでいた。しかし……彼女たちが放り出されたのは下階などではなく、塔の外であった。
17. 星
塔の最上階から数えて3階層目、その外壁に、あたかも最初からそこにあったかのような扉が据え付けられている。勢いそのまま外へ吐き出された二人は、重力に従い落下を始めた。
「な、なんで、何が……!?」
「これは……落ちてるわね、放り出されたというべきかしら」
想定外の事態に混乱を隠せないカルディナの脳裏に、老人の警告がよぎる。
"より多くを捨て去った者だけが、先へ進むことが出来る"──それはつまり、自分の積み上げたものを捨てきれなかった者が、こうしてその蓄積を"身に受ける"ことを示唆していた。あの老人が見たかったものが蓄積を自らの手で否定する姿か、或いは捨てきれずに破滅する姿だったかは定かではないが、ともあれこうして、二人は十数階層分の高さからの自由落下を強いられることとなった。
轟々と風を切る音が耳元を殴りつけている。しかし体感は不気味なほどの静寂にあった。
目下はそれなりに柔軟な草土の地面とはいえ、それを差し引いても生還が見込めるのは3,4階層が関の山だ。仮に10階層目で出会ったギアーズを連れ出していたとて、十中八九墜落死は免れない。ともすれば、そこに到達するまでカルディナがギアーズと出会わなかった理由も頷ける。そこまで引っ括めて老人の蒔いた釣り針だったのだろう。
「どうして、こんなの……」
自らが確信を持って、或いは相応の覚悟を持って選び取った選択肢。それがこうも徹底的に否定されたという事実への絶望に支配され、実時間以上に引き伸ばされる体感時間の中で思考は凍り付いていき──
「はぁ……悔しいけれど、貴女の選んだ道が正しかったみたいね」
──ミディの場違いな程に穏やかな言葉が聞こえたが最後、カルディナの体は奇妙な浮遊感に包まれる。
「……え」
「ふふ……安心しなさいな、生きてるわよ」
カルディナが平静を取り戻した頃には、塔はなぜか視界の下。迫っていた筈の地面はさらに下に見える。代わりに近付いた夜空と、相変わらず抱き合う姿勢のミディ。簡素な箒一本が二人を支えていた。
「これは……」
「この程度ならお手の物よ。貴女にも教えてあげましょうか?」
「あ……あぁー、成程……」
唖然とするカルディナを見てクスクスと笑うミディ。塔に上る前にサルビアが語っていた、"ミディが居れば、塔の調査ぐらいどうってことなかった"という話の意味を漸く理解し、ひとり勝手に納得する。
カルディナが粗方落ち着きを取り戻したとみれば、ミディの柔和な面持ちは俄にきりと引き締まる。
「さて、カルディナ……改めて聞くわ。貴女は、他の彼女たちと共に、ギアーズを取り戻す事に尽力する。そのために私を助けた……間違いないわね?」
「はい。私のギアーズを取り戻すだけじゃなく、他の黒の女王たちのギアーズもきっと……きっと、取り戻して見せます」
ミディの問いに対し、カルディナは間を開けることなく答える。いまの彼女にとって、それはもはや言葉選びに悩むまでもない事だった。カルディナの、赤色巨星が如く煌めく瞳は、じっとミディを見据えている。
「……そう。なら、これは……私たちに必要のないものね」
ミディの頭上に、黒いティアラが姿を現す。彼女はそれを手に取り、目下の塔へ抛り捨て……直後轟いた雷鳴が、落下中の星冠に直撃した。それが塔を天辺から貫き砕き、瓦礫となって地上に崩れ去っていく。破壊された塔の瓦礫に、カルディナの過去は残っていなかった。
「ミディさん……」
「ま、失うものが無い者なりに手伝わせて貰うわよ。……よろしくね、カルディナ」
「……はいっ!」
ゆるゆるりと高度を落とした箒が、彼女の両手に吸い込まれるようにして形を変え、元の手袋としての役割を取り戻す。それに不意を突かれる形で着地に躓いたカルディナを、ミディは悪戯に笑った。
そうして二人が瓦礫の上に降り立つと、いつの間にかカルディナの頭を離れていた真っ赤な魔女帽が、ひらひらと主の元へ落ちてきた。それを拾い上げ、軽く土埃を払ったカルディナは、思い出したように手鏡を取り出す。手鏡の向こうには誰も居ない。
「よかった、居た……って、塔が壊れてる……」
「これは派手にやったねぇ~、ええ?」
代わりに、森の中から聞き覚えのある声が近づいてきて姿を現した。
「貴女達、どうして此処に?」
「どうして、って薄情だなぁ。調査に二人だけじゃ心配だってサルビアが言うから応援に来てあげたってのに!」
「冬緑、あんまり余計な事言わないで……はあ、塔もダメになったなら用は無い。帰る……」
「ちょっとちょっと!結構歩いたのにトンボ帰り!?」
今来たばかりの二人が、そのまま忙しなく帰っていく……つい取り残されてしまった二人が顔を見合わせた。
「……ええと、私たちも帰りましょうか」
「そう……ですね!あはは……」
去り際に少しばかり振り返り、塔が聳えていた空を見上げる。
今はただ、星芒が降り注ぐばかりだ。


