頭からぶっかかった生温かいものが隣にいたやつの臓物だと気づくのに少しかかった。心臓の音が頭からつま先まで響き、俺が生きていることを主張してくる。
真っ赤な視界がいくらか晴れると、白衣のあいつらが目を丸くしてこちらを見つめていた。目の前にはさっきまでがたがたと蠢いていた鉄の箱。隣の奴はこいつに腹を食い破られ、俺はそうならなかった。
息切れが止まらない。白い壁が無性に眩しい。生きている。俺は生きている。
「……実験終了ですね」
「うん、データは取れた。これでいたずらにDクラスを死なせることも無くなりそうだ。再現性は問題だが、まあ今日はここまでだな」
どれだけ血がぶち撒けられたって、あいつらはいつも通りだ。そしていま被った血の海より、この人喰い箱の正体より、俺には重要なことがあった。
「あの」
あれこれ話し合っている研究員共がこちらを見る。
「俺の仕事、今日で終わりっすよね」
立ち上がると、さっきまでオレンジ色だったジャンプスーツからべちゃべちゃと血が滴り落ちる。臓物の臭いにも構わず、深呼吸をしてみる。
俺は、運がいい。
対面に座る眼鏡の職員は、目の前で人が死んでも表情1つ変えないようなこれまでの奴とは少し違うように思う。俺もう血の臭いしないよな、と思わず髪を触る。
「匡済部門の明石です。よろしくお願いします、D-7522」
「まだ番号すか?」
「はは、まだ雇用中なので」
部屋を見渡す。クリーム色の壁と柔らかな椅子はこれまで見た部屋とはずいぶん違う雰囲気だ。
「マジで出れる感じなんすね。なんか色々都市伝説みたいなの聞いたんすよ。終わったら全部忘れさせられて1からDクラスやるとか、体バラされて中身だけリサイクルされるとか」
「ああ~……あはは。もう今は、そんなことは我々が起こしませんよ」
「今は」
詳しいことは聞かないでおこう。
目の前でスクロールされるタブレットには、俺の経歴があるのだろうか。面接のようで、少し緊張してくる。
「結構色んな資格を持っているんですね」
「あー。だいぶ前ですけどね」
金もツテも無かったのでせめて手に職をつけようと、使えそうな資格をひたすら取った。結局、クソ叔父とそのクソ愛人を殺したことで無意味になったけれど。
「貴方には色々選択肢がありますよ。記憶処理を受けて頂き、元受刑者として外に出るか。あるいは、財団の一員として働くか」
「ええ?」
思わぬ展開だ。
「そんなのアリなんすか」
「研究者、とはまた違いますが。クリアランスは低いですが、こういう技術者にいてもらえるとかなり助かる部門はいくらでもあります。まあ色々な目にあったでしょうし、嫌かもしれませんけどね」
思わず天井を見上げる。必要だ、と言われるなんて随分久しぶりで、悪い気はしない。こんな血も涙もない奴らと働くなんてという気持ちはなくもないが、まあ俺も負けず劣らずカス人間だし、全部忘れて外に出る苦労を思うと、思ったより良い話かもしれない。
「財団って、給料良いんすか?」
「お、ルームメイトか。しばらく個室だったのになぁ」
俺よりは一回り年上くらいのおっさんに手を振られた。っす、と会釈しつつ支給された荷物を置く。
「部屋広いっすね。綺麗だし」
「だよな?このベッド寝てみろよ、全然違うぞ。ここまで来れるDクラスがどんくらい居るんだろうな。俺ら、運良いよなぁ」
「そっすね」
おっさんの顔をさりげなく見る。顔全体にはド派手な火傷の跡。手足は不自由ないみたいだし、このおっさんもかなり運がいいほうのはずだ。
着ているものこそ馴染みのこのツナギだが、周りの職員の態度、通される部屋からしてもう自分は死んでも誰も気に留めない実験動物ではない、と感じさせてくれる。次こそ、新しい人生を始められるのだろうか。
「えっと……」
「大崎。もう名前でいいよな?」
「大崎さん。これからどうするんすか。どっかに就職?」
「俺はずっと土方だったからな。それしか出来んし、そこに紹介してもらえるってよ。刑期明けの出所者ってことになるらしいから苦労するかもしれんが、まあなんとかなるだろ」
「そっすね。これまでのことを思えば」
大崎は豪快に笑った。これまでの経験があれば ───まあ起こったことはほぼ忘れさせられるらしいが─── 大抵のことは耐えられるような気がする。
それからはかなり密度の濃い日々だった。本来刑務所でやるものであろう社会復帰プログラムをものすごいテンポでこなす。すれ違う「解雇」まで辿り着いた奴らともたまに話したが、視力や手足を失ったり、そもそも精神をダメにしちまってる奴も結構いて、不謹慎な話だが俺はやはり運が良かった。
「お疲れ様です。どうですか勉強は」
「あ、お疲れっす」
自習室でテキストを睨みつけていると、明石さんが紙コップのコーヒーをくれた。
「良いんですか、俺にこんなん」
「これくらいタダなので」
勉強をするのも久しぶりだった。学生ぶりに開く資格のテキストを見ていると、当時の碌でもない思い出も一緒に蘇ってくる。
「変なことばっかしてたんで、まだ文字が全然頭に入ってこないすね。でもやっぱ、勉強するのって人間のやることだなって思いましたよ」
「……つまりそれは、良い事ということですか」
「もちろん」
勉強も、くだらない雑談も、コーヒーを飲むことも人間のやることだ。人間のやることをしていると、クソみたいな生活が終わったことを肌で実感出来る。
「明石さんこそ、顔めっちゃ疲れてますよ。寝てないんじゃないすか」
……何を言っているんだろう。財団職員を気にかけるなんて、俺もちょっと絆されすぎかもしれない。
「はは、そう見えます?恥ずかしいですね。匡済部門はまだ思うようにいかない事が多いですから、模索と葛藤の日々です。立場も強くありませんしね」
ふーん、とコーヒーを啜る。明石さんは軽く会釈すると、足早に去っていった。確かに俺らを社会に送り出す部門なんて、よく思わない奴もいそうなものだ。
「おうっ!捗ってんなあ、未来の博士?」
背中を叩かれ、危うくコーヒーを落としそうになる。
「だから博士じゃありませんってば」
大崎さんは声がデカくて下品だが、話してて楽しい人だ。
「昼飯食ったか」
「まだっす」
「飯は前とあんま変わんねえよな」
「ああ、確かに。ほんとに美味いもんは、外出てからのお楽しみっすね」
「こっから出たら、回らない寿司を食うって決めてんだよな。あとはキャバにでも行きてえよな」
「そんな金ねえでしょ」
「うるせえな!」
Dクラスといくら仲良くなったって、明日また出会えるかもわからない。でもこの人とは未来の話が出来る。いつかまた外で会おうなんて、強がりじゃなく言える。それが嬉しかった。
前より随分と日が短くなったらしいが、ここにいるとやはりよく分からない。ベッドに座って歯を磨きながら、荷物を整理するルームメイトの背中を眺める。
「大崎さん明日までっすか。寂しくなりますね」
「はは、久しぶりの個室楽しめよ。元気でな」
この人が何をしたのかは結局聞かなかったが、ここまで生き残ったなら残りの人生も、多少マシであってほしいものだと思った。
ほんじゃあ寝ますかと言いかけた時。
叩きつけるようなノックに、思わず肩を跳ね上げる。返事する間もなく現れたのは明石さんと、知らない白衣の男と、ゴツイ男が2人。
「D-1301、至急同行してください。荷物は結構」
「ん?こんな時間に出所かい」
……違う。この空気は、違う。思わず立ち上がった。
「おい、大崎さんをどこに連れてく気だ。まさか仕事ってんじゃないだろな」
「名前で呼ぶのは控えるように」
俺の空気を感じ取ったのか、大崎さんは表情を変える。
「いや……えっ、嘘だよな?俺はもう明日で解雇なんだろ」
男が目配せをする。ゴツイ奴の1人は物凄いスピードで大崎さんの腕を後ろに回し、何かを首に刺した。項垂れて、部屋から引きずられていく大崎さん。鮮やかな手つきで、何をする暇もなかった。というか、こういう時に暴れられるような度胸はここでの生活でとっくに失っていた。
後に残されたのは明石さんと白衣の男。
「ふ、ふざけてんのか。どこに連れてったんだよ。なあ、こんなことして良いのか。明日、明日外に出られたんだぞ」
明石さんは一瞬泣きそうな顔になる。
「Dクラスが……至急必要だったんです。40代、男性、生殖能力を喪失している。最も近隣のサイトにいたのは彼ですから、速やかに送られる必要がありました」
「んなもん探せば他に居ただろ!仕事はもう終わったんだろ!?意味わかんねえ、なんで戻らされるんだよ。なあ、なんとか言えって!」
「やめなさい!」
傍らにいたもう1人のゴツイ男に肩を掴まれ引き剥がされる。ここでこれ以上暴れない程度には、自分の身体にDクラスが染み付いていた。
「……私たち匡済部門の立場とは、まだこんなものなんですよ。実験のためならまだしも、収容のために速やかに必要と言われれば断れません」
ベッドに座り込む。Dクラスが必要。至急。力仕事の人手が足りない、なんて理由じゃないだろう。行きたいところ、風俗じゃなくてキャバって言ってたな、とこんな時に思い出した。
「運が良かったじゃないですか。あなたは若く健康、五体満足です。つまりどのサイトにも替えがいます。こんなことは起こりませんよ」
白衣の男は何でもないかのようにそう言って、隣の彼女は口元を引き攣らせた。
3人が去り、扉が閉まる。収容房よりずっと清潔で静かな部屋の澄んだ空気が、今はどうにも煩わしかった。


